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児玉源太郎 Archive

日本最初の近代的植民地支配、台湾鎮定

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台湾鎮定
聖徳記念絵画館 壁画「台湾鎮定」
石川寅治  筆
台湾総督府 奉納
明治28年6月11日
台北城北門

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熊本城攻囲戦

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西南役熊本籠城
聖徳記念絵画館 壁画「西南役熊本籠城」
近藤樵仙  筆
侯爵 細川譲立 奉納
明治10年2月
熊本県熊本城西花岡山

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気転の利かぬ野狐を、七分小玉で打ち上げた

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坂の上の雲〈5〉「乃木、ひげが白くなったな」
と、児玉が馬首越しにいったのは、この男らしくもない感傷的なことばであった。かれはこの西南戦争以来の戦友の痩せ方のひどさにおどろいたのである。
(――乃木のいくさべた)
と、むかし児玉は乃木をからかったことがある。

坂の上の雲』(二〇三高地)より

乃木希典と児玉源太郎1878年(明治11年)の頃、乃木希典歩兵第一連隊長の時、佐倉の歩兵第二連隊長の児玉源太郎習志野で対抗演習を行いました。

演習は敵味方の区別をするために、軍帽を白布で覆うのと覆わないのに分かれることになりました。この時、児玉軍が帽子に白布を覆うことになりました。そこで児玉は一計を案じ、見物に来ていた人に、男には鉢巻、女には頬被りをさせ、あちらこちらに散らばせました。乃木軍はそのおとりに目をくらませられ、その隙をついて、児玉軍は本物の部隊で乃木軍を攻撃し打ち負かしてしまいした。

結果、審判の総評は児玉軍は七分、乃木軍は三分という採点をつけました。この当時はそういった採点の仕方で、引き分けの場合はいわゆる五分五分という採点となります。

喜んだ児玉源太郎は、「気転の利かない野狐を、七分小玉で打ち上げた」という歌を作って、それに節をつけ、兵隊にうたわせながら、習志野を去っていつたといいます。

「気転の利かない野狐」とは「キテン(希典)の利かないノギ(乃木)ツネ」をもじっており、「七分小玉」とは七分勝ちで打ちのめしたという意味に、さらには一寸にも満たない小さなコダマ(児玉)、つまり身長の低い児玉が長身の乃木を打ち負かしたと皮肉っています。

二〇三高地陥落

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1904年(明治37年)12月5日、乃木第三軍がついに旅順要塞攻略戦の帰趨を決するニ〇三高地を占領しました。

坂の上の雲〈5〉児玉は成功した。
かれは砲兵陣地を大転換することによって歩兵の突撃を容易ならしめ、六千二百の日本兵を殺したニ〇三高地の西南角を一時間ニ十分で占領し、さらにその東北角をわずか三十分で占領した。明治三十七年十ニ月五日である。

坂の上の雲』(二〇三高地)より

乃木司令官は、二〇三高地における第一師団の苦戦をみて、予備軍の第七師団を投入します。直後、第三軍の司令部に到着した児玉源太郎総参謀長は、乃木希典に同意の上で、第三軍参謀らを怒声と共に叱咤督戦し、精力的に作戦指導にとりかかります。

二八サンチ榴弾砲児玉は、歩兵のみでは二〇三高地を落とせないことを理解しており、砲兵の柔軟で集中した運用を図ります。重砲兵の一六四高地への再配置を完了した児玉は、12月5日午前8時15分、二八サンチ榴弾砲をはじめ多くの大砲をもって、二〇三高地への砲撃を開始します。

同日午前9時15分、第七師団の歩兵部隊が頂上を目指して突撃を再興、同夜頂上の占領に成功しました。
二〇三高地も含めて第三回総攻撃の日本軍は戦死5,512名、戦傷11,883名。
第七師団は10,403名参加、戦死1,982名、戦傷4,224名。

渡辺崋山と児玉源太郎

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1841年(天保12年)の10月11日は渡辺崋山が国元の三河国田原の蟄居先で自殺をした日です。渡辺崋山は蟄居以来画道に精進していたといいます。

本日は渡辺崋山と児玉源太郎の逸話を一つ。

児玉源太郎は書画を愛玩するが、鑑識はさっぱりでした。ある日、黠商が児玉邸に渡辺崋山の山水大福を持ってきました。児玉はこれを激賞し、値段を問うたことろ500円というので、それをまけさせ300円で買います。しかしそれは贋筆でした。

ある人がそれを見て、「それは贋物である」と教えてくれます。
すると児玉はがっくりするどころか笑って曰く、

「しばらく黙って俺のやることを見ていろ」

と言って、すぐさま名木をもって箱をつくり、その箱を持参して書画に工みな杉聴雨を訪ねます。そして聴雨に、箱の題字を依頼します。これで杉聴雨の本物の箱と渡辺崋山の贋物とを床に飾り、真贋の見分けがつかぬようにしてしまいます。

そして、ある骨董商が杉聴雨の題字があるのを見て、その贋物ごと400円で買います。
児玉源太郎は300円の損を100円の利に買えました。商機なお軍機の如しと言えます。

公平無私、児玉源太郎

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日露戦争時、児玉源太郎参謀本部に泊りきりで職務にあたりました。

ある晩おそく大いに泥酔した有名某料理店の女将と某将軍とが陸軍省の裏門をたたき起こしました。門番は宿直判任官と共に出て、女将と某将軍に
「公用でしょうか?」
とたずねます。将軍はもちろん、女将までもが大威張りに門番を叱り付け、
「児玉さんに面会に来たのだ」
と、怒鳴った。すると門番は、
「女将などに公用があるものか?」
と、門をそのままぴしゃりと閉ざしてしまった。

ニ三日経って、ある宴会の席で、その女将は児玉に
「あの門番と判任官は無礼だ」
と大いに怒って言いつけます。その翌日、児玉はその門番と判任官を呼び出して、
「よくやった」
と、その職務に忠実であったことを褒め、金一封を与えたといいます。

児玉源太郎の身長は?

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私が『坂の上の雲』の数あるシーンの中で、とくに気に入っているのが、児玉源太郎が初めて登場するシーンです。

齢のころは五十くらいの小柄な男である。頭が里芋の子のようにまるく、きれいに禿げているが、目に愛嬌があり、どこか子供っぽくてたえずくるくる動いている。
「たのむ。渋沢サンはいるかね」
といいながら、受付の台にあごをのせるようなかっこうをし、指さきでコツコツたたいている。せいぜい小学校の分校主任といったような男だった。

坂の上の雲』(開戦へ)より

「目に愛嬌があり、どこか子供っぽくてたえずくるくる動いている」、「受付の台にあごをのせるようなかっこう」と、児玉源太郎の背の小ささを滑稽にそして愛らしく描写についつい親近感を覚えてしまいます。

ちなみに、児玉源太郎は五尺あるかないかの身の丈です。歴史上の人物なら源義経豊臣秀吉と同じです。一尺が約30.3cmでありますから、身長は150cmあるかないかということになります。ちょうど吉本新喜劇の池乃めだかさんくらいの身長といえるでしょうか。

なお、坂本竜馬の身長は173cm、親友であった乃木希典は162cmです。
3人が並ぶとちょうどこんな感じでしょうか。


(軍帽を被ってますから高く見えてます...)

墓が立派になっていい

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日露戦争開戦前の1898年(明治31年)に児玉源太郎は台湾総督に任命されます。そして、1900年には台湾総督のまま陸軍大臣を兼任。そして1903年には内務大臣を兼任します。しかしこれだけの重任にもかかわらず、さらに文部大臣までも兼任しました。

その余りの任務の重大なのを心痛した友人は、源太郎に忠告します。

すると源太郎曰く、

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児玉源太郎の水浴び

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児玉源太郎産湯の井戸

児玉源太郎没後100年とういことで、しばらくは児玉源太郎の逸話をいくつかご紹介することにいたします。

児玉源太郎は幼年7歳の時から水浴びを始めます。以来、日露戦争の始まるまでの50年間は毎日欠かさず続けたといいます。水浴びは井戸に往き、頭からザブッと浴び、寒中といえども決して欠かすことはなかったといいます。

ただ、どうしてこの水浴びを始めたかといいますと、源太郎の頭の悪さを心配した母親が水浴びを勧めたからというのだそうです。(頭を冷やすと頭がよくなるというのは、何ともかんとも...)

しかし、源太郎はいかなる境遇にある時でも母の教えを守りそれを絶やさなかったというのです。この水浴びは単なる一小事ですが、その後の児玉源太郎の活躍を振り返るならば、ここに児玉源太郎の意志の強さをうかがい知ることができます。

児玉源太郎没後100年

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児玉源太郎

本日7月23日は、児玉源太郎没後の100年の日です。

1906年(明治39年)の7月21日、児玉は体調がすぐれないと主治医多納氏を呼びます。診断したところ熱37度6分はあるが、ただ咳や頭痛もなく食事も平生と変わらないので、主治医は軽い感冒と診たて、とりあえず本日は外出を控えて安静するようにお願いします。

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児玉神社で100年祭を開催

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1906年(明治39年)7月23日は大軍師児玉源太郎の命日。
没後100年を記念して江ノ島の児玉神社で100年祭が執り行われます。

台湾総督など明治政府の要職を歴任、日露戦争満州軍総参謀長として勇名を馳せた児玉源太郎を祀った児玉神社(藤沢市江の島)で7月23日(日)、神体の没後100年を記念して100年祭が執り行われる。同祭では、祝詞や舞楽の奉納が行われるほか、李登輝前台湾総統が書した扁額の除幕式も行われる。
タウンニュース

7月23日(日)、早速予定を入れておきます。

いかなる時でも軍略家! 児玉源太郎

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維新後に於ける名士の逸談

児玉源太郎は外へ出るのに軍服の外には羊羹色の羽織一枚しか持っていなかった。それに大借金をかかえており霊南坂の屋敷を志賀重昂に売り、その借金の整理をした。

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日本三大大声

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豊臣秀吉といえば大声の持ち主でも有名。
司馬遼太郎氏も「功名が辻」で「日本三大大声」の一人として紹介しています。
ちなみに他の大声の持ち主は「天下のご意見番」と呼ばれた大久保彦左衛門と、そしてもう一人は...

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本日の「その時歴史が動いた」について

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本日のNHKの「その時歴史が動いた」、
『秘められたメディア戦略 ~児玉源太郎 日露戦争のシナリオ~ 』

日露戦争を直接勝利に導いたものは、秋山好古率いる騎兵隊による機関銃の導入と、日本海海戦における下瀬火薬に代表される新兵器の開発といわれますが、ただ戦争に勝つのではなく、日本の立場を列強に認めさせることこそが"真の勝利"と捉えた児玉源太郎のメディア戦略は、やはりは"軍師"と呼ぶに相応しい。

ただ、番組に一言。
映画「二百三高地」のシーンを奉天会戦にまで転用するのはいささか無理が...
奉天会戦に白襷隊の映像は普通にNGでしょう!)
この点で、せっかくの番組が少し興ざめました。

大軍師"児玉源太郎"、遂に登場

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11月16日の「その時歴史が動いた」は、
「秘められたメディア戦略 ~児玉源太郎 日露戦争のシナリオ~ 」

いよいよ"大軍師"の登場です。
ところで、児玉源太郎ってすごく"いい目"をしているんですよね。(by 『坂の上の雲』と公文書
あの魅力的な目で、外国メディアもとりこにしたんでしょうねきっと。

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関ヶ原古戦場

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sekigahara.jpg
(岐阜県不破郡関ケ原)

日本陸軍育ての親メッケルが講義演習のため、児玉源太郎らを引き連れて関ヶ原の古戦場を訪れた時、東軍、西軍の配置図を見て即座に「西軍の勝ちは明白である」といった話は有名。

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