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正岡子規 Archive

正岡子規の墓誌銘

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墓誌銘

明治31年7月13日、正岡子規は「正岡子規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人・・・」という墓誌銘を、河東銓にあてて書き送ります。

正岡子規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養 ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓

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正岡子規、「病牀六尺」連載開始

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正岡子規
正岡子規

1902年(明治35年)5月5日、正岡子規は新聞「日本」紙上に、『病牀六尺』の連載を始めます。
そこには子規のユーモアと生の執着を見ることができます。

病牀六尺これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には廣過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に觸れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして體をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も體の動けない事がある。苦痛、煩悶、號泣、麻痺剤、僅かに一條の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさへ讀めないで苦しんで居る時も多いが、讀めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らず寝て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして
「病牀六尺」一(五月五日)より

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正岡子規、神戸病院を退院して須磨保養院へ

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須磨保養院
「須磨海浜保養院」

1895年(明治28年)7月23日、正岡子規は神戸病院を退院して須磨保養院に移りました。

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正岡子規と「富士のよせがき」と「富士山検定」

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富士のよせ書

『富士のよせ書』とは、1890年(明治23年)に正岡子規と五百木瓢亭との共同作業で収拾した、江戸時代以前の古書から富士山に関する記述を抜粋し書き写したものです。

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青梅をかきはじめなり果物帖

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青梅

1902年(明治35年)6月27日に、正岡子規は画帳に青梅を写生します。

これが「果物帖」のはじまりとなります。

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血に啼く子規(ほととぎす)

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ほととぎす

1889年(明治22年)5月9日夜、正岡子規は常盤会寄宿舎で血を吐きます。

この年の五月、同郷の後輩である柳原極堂が子規をこの寄宿舎にたずねると、子規がふとんをのべて寝ている。柳原はおどろき、
「升さん、どうおしたのか」
と近づくと、子規は蒼い顔色で笑顔をつくりつつ、
「喀血したのよ」
と、小さな声でいった。
坂の上の雲』(ほととぎす)より

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子規の悲しみ、「七変人」清水則遠の死

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正岡子規
(写真前列左より清水則遠、子規)

1886年(明治19年)4月14日、「七変人」の一人、清水則遠が脚気衝心で急死してしまいます。

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子規の祖父、大原観山

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1875年(明治8年)4月11日、正岡子規の祖父・大原観山が永眠しました。(享年58歳)

観山は松山藩の儒者で詩文に長じ、識見気節高く、藩政の上にも数々の功績を残しました。

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子規待ちくたびれて、へらへらへ、はらはらは

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1895年(明治28年)4月10日、正岡子規日清戦争従軍記者として御用船海城丸で宇品を出港します。

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正岡子規、根岸短歌会を開く

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はがき歌

1899年(明治32年)3月14日、正岡子規は根岸の子規庵で歌会を催しました。子規はこの歌会を開くにあたり、出席を依頼する「はがき歌」を送っています。

「はがき歌」とは五・七・五・七・七の短歌形式のお手紙で、現在も愛好されています。

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正岡子規、従軍記者となる

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日清戦争に従軍する子規
(従軍する前に広島で記者仲間と写した記念写真、後列右が子規)

1895年(明治28年)3月3日、正岡子規日清戦争の従軍記者として東京を出発します。

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歌詠みは裕福、俳人は貧乏?

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1901年(明治34年)2月28日、子規門人である「根岸短歌会」の伊藤左千夫、香取秀真、岡麓らが子規庵を訪ねます。

茶人でもある伊藤左千夫は子規に茶を立て、そして会席料理で子規をもてなします。

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正岡子規の癖

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2007年1月26日 01:21
  • 正岡子規

森鴎外によれば、「正岡子規は鼻くそを丸めては、そこいらに飛ばす汚い癖があった」と述べています。

これに対して、高浜虚子とともに正岡子規門下の双璧と呼ばれた河東碧梧桐は、こう弁護しています。

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明治天皇、牛肉を初めて召上る

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aguranabe.gif
仮名垣魯文『安愚楽鍋』より

1872年(明治5年)1月24日、明治天皇が初めて牛肉を召上ります。

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「墨汁一滴」、連載開始

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1901年(明治34年)1月16日、正岡子規は新聞「日本」に「墨汁一滴」の連載を開始します。

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俳句雑誌「ほとゝぎす」創刊

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1897年(明治30年)1月15日、正岡子規の故郷松山で俳句雑誌「ほとゝぎす」が創刊されました。

「日本は売れぬ」
ホトトギスは売れる」
と、子規は漱石にいう。子規にすれば陸渇南の「日本」の社員としてそこから月給をもらっているのであるが、かれ個人で仲間をあつめて出している雑誌「ホトトギス」が大いに売れるのである。
ホトトギス」は、明治三十年一月、伊予松山で創刊号を出した。その創刊号いらい、子規は日本と「ホトトギス」におもに詩文を発表するようになった。
坂の上の雲』(子規庵)より

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子規庵のガラス障子

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子規庵
子規庵

病床の子規には、大好きな庭を見るにしても、上野の山を望むにしても、いちいち障子を開けてもらわはなければならなかったが、1899年(明治32年)12月10日ごろ、この病床生活に一大変化が生じます。

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「子規歳時」今日は何の日?

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12月1日(金)~3日(日)まで名古屋古書会館で開催される古書即売会「名鯱会」に行ってきました。今回購入した古書は以下の三点です。

 『乃木大将事蹟』 再版 (塚田清市編/乃木十三日会/昭13刊)
 『将軍乃木』 (桜井忠温著/実業之日本社/昭3刊)
 『子規歳時』 改訂 (越智ニ良著/松山子規会/平9刊)

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明治の野球を再現、「正岡子規記念球場」

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2006年11月27日 23:44
  • 正岡子規

正岡子規と野球26日、東京・上野公園にある「正岡子規記念球場」で、明治時代の野球を再現した「の・ボール」大会が開かれたようです。

本日は、その模様を紹介したYahoo!写真ニュース「雑記帳 明治の野球を再現 「正岡子規記念球場」で 東京」に、当サイト内の「正岡子規と野球」が関連リンクで紹介されました。

関連リンク

ありがとうございます。

「自由何クニカアル」、自由民権運動

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1881年(明治14年)10月に「国会開設の詔」が発せられ、10月29日に板垣退助を総裁とする自由党が結成されます。1882年(明治15年)9月には高知の立志社、徳島の自助社から自由党員が松山で演説会を開きます。

坂の上の雲〈1〉「志士きたる」
などというはり紙が、大街道の人目につくところに貼り出されていた。自由民権運動家のことを、松山では「志士」といっていた。
高名な植木枝盛が松山にきて鮒屋旅館にとまったときも、中学四年生の子規はなかまと一緒に旅館へおしかけ、意見をきいたことがある。

坂の上の雲』(真之)より

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四国初の鉄道、伊予鉄道松山・三津浜間開通(坊ちゃん列車)

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坊ちゃん列車

再び喀血した正岡子規は、静養のため故郷松山に帰郷します。

坂の上の雲〈1〉神戸から三津浜(松山郊外)までは、汽船を利用した。
三津浜桟橋につくと、ここでも汽車が待っている。三津浜と松山の一里半というみちのりを、この汽車はひと飛ばしで人をはこぶ。
この汽車は、去年の十月に開通した。ひところをおもうと、信じられぬほどの便利さであった。

坂の上の雲』(ほととぎす)より

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「松山の吉田松陰」

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2006年10月27日 00:07
  • 正岡子規

1859年(安政6年)10月27日、吉田松陰が伝馬町にて斬首されます。(安政の大獄)
吉田松陰は叔父玉木文之進松下村塾の主宰者となり、高杉晋作・久坂玄瑞・入江杉蔵・野村和作・前原一誠伊藤博文など幕末~明治期に活躍した人材を教育しました。

あたらしく常盤会寄宿舎の監督になった内藤鳴雪は東京でも地名の士であったが、郷里の松山ではむろん高名であった。(中略)
こういう鳴雪が寄宿舎の監督になるというとき、鳴雪を知る者はみな、
「松山の吉田松陰になるつもりではないか」
と、おもった。事実、旧藩としては鳴雪に委嘱する以上、そういうつもりも多少あったであろう。
坂の上の雲』(ほととぎす)より

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正岡子規、『俳諧大要』の連載開始

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坂の上の雲〈2〉十月十九日、子規は漱石とも別れて松山を発った。帰郷するつもりであったが、まっすぐにはもどらず上方のあちこちを見ようとおもった。広島から須磨まできたところ、にわかに左の腰骨のあたりが痛みだし、歩行もできなくなった。子規の晩年をくるしめたカリエスがここで症状露にしたのだが、子規はこのときはさほどの重症とはおもわず、痛みのうすらぐまで須磨で保養し、やがて、大坂と奈良にあそんだ。

坂の上の雲』(須磨の灯)より

1895年(明治28年)10月19日に松山を発った正岡子規は、10月31日に東京に戻るまでの約2週間、広島、須磨、大坂を経て奈良で遊ぶとなりますが、10月22日から新聞「日本」で俳句への修学課程を説いた『俳諧大要』の連載をはじめます。要するにちゃんと仕事もこなしていました。

俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥ずかしがる莫れ。

『俳諧大要』より

子規逝くや十七日の月明に

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1902年(明治35年)の本日9月19日は正岡子規の命日。

この日、旧暦の十七夜にあたっていた。(中略)その板塀のあかるさのなかを、何物かが動いて流れてゆくような気が、一瞬した。子規居士の霊だと、虚子はおもった。霊がいま空中へあがりつつあるのであろう。
  子規逝くや十七日の月明に
と、虚子が口ずさんだのは、このときであった。即興だが、こしらえごとでなく、子規がその文学的生命をかけてやかましくいった写生を虚子はいまおこなったつもりだった。

坂の上の雲』(十七夜)より

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正岡子規、帝国大学退学の真相?

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正岡子規1892年(明治25年)に帝国大学を突如退学します。

もっとも、子規もよくなかった。二十五年の初夏に、二年目の落第をしてしまっている。(中略)
子規は、退学を決意した。郷里の母親や叔父などはそのまま学業をつづけてとにかくも文学士になってくれることを切望したが、子規の決意はかたかった。

坂の上の雲』(日清戦争)より

このときの落第の言い分を当の本人はこう語っています。

大学ほど実に下らない所はない。まァ聞きたまへ。英文学の試験に何をやるかと思うと、詩を二行ばかり出して、その解釈をさせるならまだしもだが、これは誰の作の何と題する詩にあるかというんだ。毛唐の奴、どこまで、人を子供扱いにするか分らない。僕は癪に障ったから、答案を出さないで、ドンドンと教室を出てしまった。それなり学校はよしさ。

英語が苦手だった子規のいかにも負けず嫌いな言い分です。
すでに俳句に夢中になっていた子規には、どこか踏ん切りが必要だったのでしょう。もし子規が英語が得意だったら、俳聖・正岡子規はこの世に誕生しなかったということになります。

正岡子規も夢中にさせた坪内逍遥

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坪内逍遥少年時代の住居址

 子規はその後大学予備門の生活のなかで、かれがもっとも熱中している文学のことに関しては、東京専門学校坪内逍遥から多くの影響をうけた。
「逍遥の『当世書生気質』をよんだのは東京へ出て早々じゃったが、おおげさにいえば読みおわったあとは気が立ってねむれなんだ」
「そのあと、『妹と背かゞみ』が出たときは、これは書生気質以上じゃと思うた」
(『坂の上の雲』一巻「ほととぎす」より)

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柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2006年7月17日 21:07
  • 正岡子規

法隆寺

司馬遼太郎記念館を訪ねた後に、奈良県斑鳩の法隆寺を尋ねました。

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はがき歌 - 正岡子規

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2006年7月 8日 19:32
  • 正岡子規

はがき歌

本日は申し込んでいたエクスプレスカードを受け取りに郵便局に行く。
その郵便局の宣伝コーナーになんか見たことのある人物の写真があるなと思い、覗いてみると「第12回はがき歌全国コンテスト」の案内パンフであった。もちろん写真の主は正岡子規である。

へー、五・七・五・七・七の短歌形式ではがきを出すんだ。こんなコンテストがあるとは知りませんでした。
なんかおもしろそうです。これなら私にでも応募できそうです。

それにしても、古典の世界をもごく普通の日常に変えてしまう正岡子規

ほんとにガイな人である。

「はがき歌全国コンテスト」の応募詳細はこちらをどうぞ

正岡子規の俳句革新

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俳句の革新運動は正岡子規一人の運動ではなく、尾崎紅葉硯友社においても、新しい句作が試みられた。ただ紅葉らにとって俳句は小説の余技でしかなく、俳句を遊戯とみなす伝統的思想から抜けきれないものがあった。それに反して子規においては全く魂を打込んでの第一義の仕事とし、俳句に芸術としての新しい息吹を吹き込もうとする文学運動であった。故に子規を待って初めて真の革新的意義が認められる。

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上野に花開く子規球場

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2006年3月12日 03:32
  • 正岡子規
5月で開園130周年を迎える東京・上野公園内に「正岡子規記念球場」が誕生する。俳人で歌人でもある正岡子規(1867-1902年)が大の野球好きだったのは有名な話。子規が亡くなるまで野球を楽しんだのが、上野公園だった。都立上野恩賜公園野球場の改修を機に愛称とし、球場脇には野球にちなんだ子規の句碑も建立する。
3月8日「東京新聞」より

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本を読むのにさほど金は要らんものぞな

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2006年1月15日 02:47
  • 正岡子規

ここ数日は仕事が忙しくてブログの更新まで手がまわっていません。
来週の会議で発表する資料の作成に追われています。
基本的にサラリーマンですので、やっぱり仕事は大切です。

ただ、こういった発表資料を作成している時などいつも感じてしまうのが、己の"発想力"の無さを痛感します。今やインターネットの普及でわざわざ本を調べなくても簡単に参考資料を探すことはできますが、ただ話の筋道や相手を説得できる内容に仕上げるには、どうにもこうにもうまく行きません。

いくら名文を並べても、結局はタイミングと話し方が悪ければつまらないものになります。話の上手い人というのは、他人の名文だとわかっていてもその人の教養を感じます。普段から体に染み付くぐらいに本を読んでいるのだろうと思います。
かの正岡子規もこう言います。

「あそばずに本をお読みや。本を読むのにさほど金は要らんものぞな。」

と。

俳句の革新運動を起こした正岡子規もはじめから俳句が上手かったわけではありません。彼なりに古い俳書や句集の書物を古本屋で探し出し、一生懸命読むにつれて俳句の腕も上達したといいます。そのエネルギーに魅せられて、あれほどの門人や知人、友人がいるのだと思います。

今や100円も出せば欲しい本が手に入る、ほんとに"いい時代"です。
もっともっと本を読んで、中身を鍛えようと思います。

正岡子規と秋山真之の友情

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正岡子規は「病牀六尺」の中で、竹馬の友秋山真之について記しています。

枕許にちらかってあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壷、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛繻子(じゅす)のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。

「病牀六尺」(6月7日)より

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明治人のお葬式

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2005年11月15日 23:38
  • 正岡子規

明治人のお葬式昨日に続いて紹介されて読んだ本。明治人のお葬式

明治の偉人のお葬式を淡々と記しているだけの作品。特にこれと言った感想はありませんが、ただ正岡子規のお葬式が掲載されていたので、5月に訪ねた大龍寺のことを思い出しながら読んでみました。


子規絶筆の三句

糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
をととひの へちまの水も 取らざりき


「坂の上の雲」の主人公の中で、一緒にお酒を飲み交わしたい人は誰?

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アサヒビールが実施しました『一度で良いから、お酒を飲み交わしたい歴史上の人物は?』を拝見しました。

坂本竜馬織田信長、聖徳太子、徳川家康西郷隆盛と、まぁ予想通りの結果でしたが...

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正岡子規のお墓

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2005年5月28日 21:22
  • 正岡子規

正岡子規のお墓

本日の午前中は正岡子規のお墓がある大龍寺と根岸の子規庵を訪ね、子規の通った道ということで、根岸から東京大学まで歩いてみました。

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正岡子規にちなんだバス

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  • Posted by: sakanouenokumo
  • 2005年5月17日 01:18
  • 正岡子規

narakoutsu.jpg

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

正岡子規俳句にちなんだ柿色のボディに、斑鳩三塔と鹿のシルエットを配した奈良交通のラッピングバスだそうです。春日大社本殿から法隆寺を結ぶ「奈良・西の京・斑鳩回遊ライン」でお目にかかれるようです。
写真:奈良交通ホームページより引用

そう言えば高校時代に正岡子規をまねて法隆寺に行って柿を食べたのを思い出しました。

見染塚

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見染塚
(愛知県一宮市木曽川町)

1891年(明治24年)の夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩をします。この時の思いでを、1899年(明治32年)7月、子規が発表した小作品「旅」の中に記しています。

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