明治時代年表 > 「明治」という国家 > 正岡子規 Archive
正岡子規 Archive
正岡子規の墓誌銘
Social Bookmarks:- 2009年7月13日 23:37
- 1898年(明治31年) | 正岡子規

明治31年7月13日、正岡子規は「正岡子規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人・・・」という墓誌銘を、河東銓にあてて書き送ります。
正岡子規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩御 馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養 ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓
- Comments: 0
- TrackBack (Close): 0
正岡子規、「病牀六尺」連載開始
Social Bookmarks:- 2009年5月 5日 00:07
- 1902年(明治35年) | 正岡子規
1902年(明治35年)5月5日、正岡子規は新聞「日本」紙上に、『病牀六尺』の連載を始めます。
そこには子規のユーモアと生の執着を見ることができます。
病牀六尺これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には廣過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に觸れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして體をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も體の動けない事がある。苦痛、煩悶、號泣、麻痺剤、僅かに一條の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさへ讀めないで苦しんで居る時も多いが、讀めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らず寝て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして「病牀六尺」一(五月五日)より
- Comments: 0
- TrackBack (Close): 0
正岡子規、神戸病院を退院して須磨保養院へ
Social Bookmarks:- 2007年7月23日 00:11
- 1895年(明治28年) | 正岡子規
- Comments: 0
- TrackBack (Close): 0
正岡子規と「富士のよせがき」と「富士山検定」
Social Bookmarks:- 2007年7月 5日 22:30
- 1890年(明治23年) | 正岡子規
- Comments: 0
- TrackBack (Close): 0
血に啼く子規(ほととぎす)
Social Bookmarks:- 2007年5月 9日 00:02
- 1889年(明治22年) | 正岡子規

1889年(明治22年)5月9日夜、正岡子規は常盤会寄宿舎で血を吐きます。
この年の五月、同郷の後輩である柳原極堂が子規をこの寄宿舎にたずねると、子規がふとんをのべて寝ている。柳原はおどろき、『坂の上の雲』(ほととぎす)より
「升さん、どうおしたのか」
と近づくと、子規は蒼い顔色で笑顔をつくりつつ、
「喀血したのよ」
と、小さな声でいった。
- Comments: 1
- TrackBack (Close): 0
子規待ちくたびれて、へらへらへ、はらはらは
Social Bookmarks:- 2007年4月10日 00:07
- 1895年(明治28年) | 正岡子規
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
正岡子規、根岸短歌会を開く
Social Bookmarks:- 2007年3月14日 01:00
- 1899年(明治32年) | 正岡子規

1899年(明治32年)3月14日、正岡子規は根岸の子規庵で歌会を催しました。子規はこの歌会を開くにあたり、出席を依頼する「はがき歌」を送っています。
「はがき歌」とは五・七・五・七・七の短歌形式のお手紙で、現在も愛好されています。
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
俳句雑誌「ほとゝぎす」創刊
Social Bookmarks:- 2007年1月15日 00:30
- 1897年(明治30年) | 正岡子規
1897年(明治30年)1月15日、正岡子規の故郷松山で俳句雑誌「ほとゝぎす」が創刊されました。
「日本は売れぬ」『坂の上の雲』(子規庵)より
「ホトトギスは売れる」
と、子規は漱石にいう。子規にすれば陸渇南の「日本」の社員としてそこから月給をもらっているのであるが、かれ個人で仲間をあつめて出している雑誌「ホトトギス」が大いに売れるのである。
「ホトトギス」は、明治三十年一月、伊予松山で創刊号を出した。その創刊号いらい、子規は日本と「ホトトギス」におもに詩文を発表するようになった。
- Comments: 0
- TrackBack (Close): 0
子規庵のガラス障子
Social Bookmarks:- 2006年12月11日 00:06
- 1899年(明治32年) | 正岡子規

子規庵
病床の子規には、大好きな庭を見るにしても、上野の山を望むにしても、いちいち障子を開けてもらわはなければならなかったが、1899年(明治32年)12月10日ごろ、この病床生活に一大変化が生じます。
- Comments: 0
- TrackBack (Close): 0
「子規歳時」今日は何の日?
Social Bookmarks:12月1日(金)~3日(日)まで名古屋古書会館で開催される古書即売会「名鯱会」に行ってきました。今回購入した古書は以下の三点です。
『乃木大将事蹟』 再版 (塚田清市編/乃木十三日会/昭13刊)
『将軍乃木』 (桜井忠温著/実業之日本社/昭3刊)
『子規歳時』 改訂 (越智ニ良著/松山子規会/平9刊)
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
明治の野球を再現、「正岡子規記念球場」
Social Bookmarks:- 2006年11月27日 23:44
- 正岡子規
26日、東京・上野公園にある「正岡子規記念球場」で、明治時代の野球を再現した「の・ボール」大会が開かれたようです。
本日は、その模様を紹介したYahoo!写真ニュース「雑記帳 明治の野球を再現 「正岡子規記念球場」で 東京」に、当サイト内の「正岡子規と野球」が関連リンクで紹介されました。

ありがとうございます。
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
「自由何クニカアル」、自由民権運動
Social Bookmarks:- 2006年10月29日 00:06
- 1881年(明治14年) | 正岡子規
1881年(明治14年)10月に「国会開設の詔」が発せられ、10月29日に板垣退助を総裁とする自由党が結成されます。1882年(明治15年)9月には高知の立志社、徳島の自助社から自由党員が松山で演説会を開きます。
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
四国初の鉄道、伊予鉄道松山・三津浜間開通(坊ちゃん列車)
Social Bookmarks:- 2006年10月28日 00:01
- 1888年(明治21年) | 正岡子規

再び喀血した正岡子規は、静養のため故郷松山に帰郷します。
神戸から三津浜(松山郊外)までは、汽船を利用した。
三津浜桟橋につくと、ここでも汽車が待っている。三津浜と松山の一里半というみちのりを、この汽車はひと飛ばしで人をはこぶ。
この汽車は、去年の十月に開通した。ひところをおもうと、信じられぬほどの便利さであった。『坂の上の雲』(ほととぎす)より
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
「松山の吉田松陰」
Social Bookmarks:- 2006年10月27日 00:07
- 正岡子規
1859年(安政6年)10月27日、吉田松陰が伝馬町にて斬首されます。(安政の大獄)
吉田松陰は叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり、高杉晋作・久坂玄瑞・入江杉蔵・野村和作・前原一誠・伊藤博文など幕末~明治期に活躍した人材を教育しました。
あたらしく常盤会寄宿舎の監督になった内藤鳴雪は東京でも地名の士であったが、郷里の松山ではむろん高名であった。(中略)『坂の上の雲』(ほととぎす)より
こういう鳴雪が寄宿舎の監督になるというとき、鳴雪を知る者はみな、
「松山の吉田松陰になるつもりではないか」
と、おもった。事実、旧藩としては鳴雪に委嘱する以上、そういうつもりも多少あったであろう。
- Comments: 0
- TrackBack (Close): 0
正岡子規、『俳諧大要』の連載開始
Social Bookmarks:- 2006年10月22日 00:21
- 1895年(明治28年) | 正岡子規
十月十九日、子規は漱石とも別れて松山を発った。帰郷するつもりであったが、まっすぐにはもどらず上方のあちこちを見ようとおもった。広島から須磨まできたところ、にわかに左の腰骨のあたりが痛みだし、歩行もできなくなった。子規の晩年をくるしめたカリエスがここで症状露にしたのだが、子規はこのときはさほどの重症とはおもわず、痛みのうすらぐまで須磨で保養し、やがて、大坂と奈良にあそんだ。
『坂の上の雲』(須磨の灯)より
1895年(明治28年)10月19日に松山を発った正岡子規は、10月31日に東京に戻るまでの約2週間、広島、須磨、大坂を経て奈良で遊ぶとなりますが、10月22日から新聞「日本」で俳句への修学課程を説いた『俳諧大要』の連載をはじめます。要するにちゃんと仕事もこなしていました。
俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥ずかしがる莫れ。『俳諧大要』より
- Comments: 2
- TrackBacks: 0
子規逝くや十七日の月明に
Social Bookmarks:- 2006年9月19日 22:40
- 1902年(明治35年) | 正岡子規
この日、旧暦の十七夜にあたっていた。(中略)その板塀のあかるさのなかを、何物かが動いて流れてゆくような気が、一瞬した。子規居士の霊だと、虚子はおもった。霊がいま空中へあがりつつあるのであろう。
子規逝くや十七日の月明に
と、虚子が口ずさんだのは、このときであった。即興だが、こしらえごとでなく、子規がその文学的生命をかけてやかましくいった写生を虚子はいまおこなったつもりだった。『坂の上の雲』(十七夜)より
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
正岡子規、帝国大学退学の真相?
Social Bookmarks:- 2006年9月 5日 23:29
- 1892年(明治25年) | 正岡子規
正岡子規は1892年(明治25年)に帝国大学を突如退学します。
もっとも、子規もよくなかった。二十五年の初夏に、二年目の落第をしてしまっている。(中略)
子規は、退学を決意した。郷里の母親や叔父などはそのまま学業をつづけてとにかくも文学士になってくれることを切望したが、子規の決意はかたかった。
このときの落第の言い分を当の本人はこう語っています。
大学ほど実に下らない所はない。まァ聞きたまへ。英文学の試験に何をやるかと思うと、詩を二行ばかり出して、その解釈をさせるならまだしもだが、これは誰の作の何と題する詩にあるかというんだ。毛唐の奴、どこまで、人を子供扱いにするか分らない。僕は癪に障ったから、答案を出さないで、ドンドンと教室を出てしまった。それなり学校はよしさ。
英語が苦手だった子規のいかにも負けず嫌いな言い分です。
すでに俳句に夢中になっていた子規には、どこか踏ん切りが必要だったのでしょう。もし子規が英語が得意だったら、俳聖・正岡子規はこの世に誕生しなかったということになります。
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
正岡子規も夢中にさせた坪内逍遥
Social Bookmarks:
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
はがき歌 - 正岡子規
Social Bookmarks:- 2006年7月 8日 19:32
- 正岡子規

本日は申し込んでいたエクスプレスカードを受け取りに郵便局に行く。
その郵便局の宣伝コーナーになんか見たことのある人物の写真があるなと思い、覗いてみると「第12回はがき歌全国コンテスト」の案内パンフであった。もちろん写真の主は正岡子規である。
へー、五・七・五・七・七の短歌形式ではがきを出すんだ。こんなコンテストがあるとは知りませんでした。
なんかおもしろそうです。これなら私にでも応募できそうです。
それにしても、古典の世界をもごく普通の日常に変えてしまう正岡子規。
ほんとにガイな人である。
「はがき歌全国コンテスト」の応募詳細はこちらをどうぞ
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
正岡子規の俳句革新
Social Bookmarks:- 2006年5月15日 00:36
- 1892年(明治25年) | 正岡子規
俳句の革新運動は正岡子規一人の運動ではなく、尾崎紅葉の硯友社においても、新しい句作が試みられた。ただ紅葉らにとって俳句は小説の余技でしかなく、俳句を遊戯とみなす伝統的思想から抜けきれないものがあった。それに反して子規においては全く魂を打込んでの第一義の仕事とし、俳句に芸術としての新しい息吹を吹き込もうとする文学運動であった。故に子規を待って初めて真の革新的意義が認められる。
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
上野に花開く子規球場
Social Bookmarks:- 2006年3月12日 03:32
- 正岡子規
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
本を読むのにさほど金は要らんものぞな
Social Bookmarks:- 2006年1月15日 02:47
- 正岡子規
ここ数日は仕事が忙しくてブログの更新まで手がまわっていません。
来週の会議で発表する資料の作成に追われています。
基本的にサラリーマンですので、やっぱり仕事は大切です。
ただ、こういった発表資料を作成している時などいつも感じてしまうのが、己の"発想力"の無さを痛感します。今やインターネットの普及でわざわざ本を調べなくても簡単に参考資料を探すことはできますが、ただ話の筋道や相手を説得できる内容に仕上げるには、どうにもこうにもうまく行きません。
いくら名文を並べても、結局はタイミングと話し方が悪ければつまらないものになります。話の上手い人というのは、他人の名文だとわかっていてもその人の教養を感じます。普段から体に染み付くぐらいに本を読んでいるのだろうと思います。
かの正岡子規もこう言います。
「あそばずに本をお読みや。本を読むのにさほど金は要らんものぞな。」
と。
俳句の革新運動を起こした正岡子規もはじめから俳句が上手かったわけではありません。彼なりに古い俳書や句集の書物を古本屋で探し出し、一生懸命読むにつれて俳句の腕も上達したといいます。そのエネルギーに魅せられて、あれほどの門人や知人、友人がいるのだと思います。
今や100円も出せば欲しい本が手に入る、ほんとに"いい時代"です。
もっともっと本を読んで、中身を鍛えようと思います。
- Comments: 1
- TrackBacks: 1
正岡子規と秋山真之の友情
Social Bookmarks:正岡子規は「病牀六尺」の中で、竹馬の友秋山真之について記しています。
枕許にちらかってあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壷、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛繻子(じゅす)のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。「病牀六尺」(6月7日)より
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
明治人のお葬式
Social Bookmarks:- 2005年11月15日 23:38
- 正岡子規
昨日に続いて紹介されて読んだ本。明治人のお葬式
明治の偉人のお葬式を淡々と記しているだけの作品。特にこれと言った感想はありませんが、ただ正岡子規のお葬式が掲載されていたので、5月に訪ねた大龍寺のことを思い出しながら読んでみました。
子規絶筆の三句
糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
をととひの へちまの水も 取らざりき
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
正岡子規にちなんだバス
Social Bookmarks:- 2005年5月17日 01:18
- 正岡子規

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
正岡子規の俳句にちなんだ柿色のボディに、斑鳩三塔と鹿のシルエットを配した奈良交通のラッピングバスだそうです。春日大社本殿から法隆寺を結ぶ「奈良・西の京・斑鳩回遊ライン」でお目にかかれるようです。
写真:奈良交通ホームページより引用
そう言えば高校時代に正岡子規をまねて法隆寺に行って柿を食べたのを思い出しました。
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
見染塚
Social Bookmarks:- 2004年10月10日 20:38
- 1891年(明治24年) | 正岡子規

(愛知県一宮市木曽川町)
1891年(明治24年)の夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩をします。この時の思いでを、1899年(明治32年)7月、子規が発表した小作品「旅」の中に記しています。
- Comments: 0
- TrackBacks: 0
- Information
-
- 「スゴブロ2009」ベスト20の9位に選ばれました
- 日経BPセカンドステージ大人のブログ探訪で紹介されました
- Books
- Search
- Photos
- Tag Cloud
-
- 黒田清隆
- 黒木為楨
- 黒川真頼
- 黒井悌次郎
- 鳩山和夫
- 鳥尾小弥太
- 高浜虚子
- 高村光雲
- 高杉晋作
- 高木兼寛
- 馬場新八
- 須知源次郎
- 靑木周蔵
- 陸羯南
- 陸奥広吉
- 陸奥宗光
- 阿部泰蔵
- 阿部正弘
- 間宮林蔵
- 長岡外史
- 鍋島閑叟
- 鍋島直正
- 金玉均
- 野津鎮雄
- 野津道貫
- 野村靖
- 野村和作
- 近藤廉平
- 近藤勇
- 赤塚源六
- 財部彪
- 豊臣秀吉
- 谷村計介
- 谷干城
- 西郷隆盛大久保利通
- 西郷隆盛
- 西郷従道
- 西田伝助
- 西村茂樹
- 西寛二郎
- 西園寺公望
- 西周
- 西吉兵衛
- 藤井茂太
- 落合豊三郎
- 落合芳幾
- 萩原三奎
- 菅野スガ
- 菅原道真
- 荘田平五郎
- 荒井郁之助
- 英照皇太后
- 船田操
- 聯芳両
- 織田信長
- 細川護久
- 箕作麟祥
- 箕作秋坪
- 竹島音次郎
- 穂積陳重
- 秋山貞
- 秋山真之
- 秋山好古
- 福沢諭吉
- 福島安正
- 福岡孝悌
- 福地源一郎
- 福原鐐二郎
- 石川理紀之助
- 矢田部良吉
- 白瀬矗
- 白川義則
- 白井二郎
- 畠山勇子
- 町田房蔵
- 甲賀源吾
- 由利公正
- 田村怡与造
- 濱尾新
- 湯浅理兵
- 渋沢栄一
- 清河純一
- 清水誠
- 清水則遠
- 浅野長勲
- 津田真道
- 津田梅子
- 津田三蔵
- 河野敏鎌
- 河東静渓
- 河村純義
- 河合操
- 河井継之助
- 沢太郎左衛門
- 池田也彬
- 江藤新平
- 江美水蔭
- 永岡久茂
- 永井荷風
- 毛利新介
- 毛利恭介
- 武田信玄
- 正木義太
- 正岡子規
- 橘周太
- 樺山資紀
- 横倉誠次郎
- 榎本武揚
- 楢林栄七郎
- 楠木正成
- 森有礼
- 森山慶三郎
- 梅ケ谷
- 桂太郎
- 柳原極堂
- 柳原前光
- 林有造
- 林三子雄
- 板垣退助
- 松本良順
- 松方正義
- 松平春嶽
- 松平定行
- 松川敏胤
- 東郷平八郎
- 東条英教
- 東久世通禧
- 条野伝平
- 村田経芳
- 村上水軍
- 村上格一
- 李鴻章
- 杉野孫七
- 杉享二
- 末松謙澄
- 木村半兵衛
- 木戸孝允
- 朝比奈知泉
- 有馬良橘
- 有栖川宮熾仁親王
- 有栖川宮幟仁親王
- 曾禰荒助
- 昭憲皇太后
- 星亨
- 明治天皇
- 日比遜
- 日比翁助
- 新田融
- 新渡戸稲造
- 新海竹太郎
- 斎藤七五郎
- 斉藤実
- 教育
- 恒吉忠道
- 徳川慶喜大久保利通
- 徳川慶喜
- 徳川圀順
- 徳川光圀
- 徳富蘆花
- 徳富猪一郎
- 徳大寺実則
- 後藤貞行
- 後藤象次郎
- 後藤象二郎
- 後藤新平
- 広瀬武夫
- 広沢平助
- 幸徳秋水
- 平沼騏一郎
- 平井希昌
- 常陸山
- 川村純義
- 川崎千虎
- 川島令次郎
- 川上操六
- 島義勇
- 島田一良
- 島津斉彬
- 島津久光
- 島村速雄
- 島崎保三
- 岩崎弥太郎
- 岩倉具視
- 岡田啓介
- 岡倉天心
- 山路愛山
- 山県有朋
- 山田鬼斎
- 山田美妙
- 山本権兵衛
- 山本勘助
- 山本五十六
- 山口尚芳
- 山口仙之助
- 山内容堂
- 山下亀三郎
- 屋井先蔵
- 尾車
- 小栗上野介
- 小林環
- 小松帯刀
- 小村寿太郎
- 小川又次
- 小山豊太郎
- 寺島宗則
- 寺内正毅
- 宮下太吉
- 安保清種
- 宇都宮三郎
- 奥村五百子
- 奥保鞏
- 大鳥圭介
- 大隈重信
- 大砲
- 大橋栄二
- 大村益次郎
- 大木喬任
- 大島義昌
- 大山巌
- 大久保利通
- 外山正一
- 夏目漱石
- 坂本龍馬
- 坂本清馬
- 坂本八郎太
- 土方歳三
- 嘉仁親王
- 品川弥二郎
- 和泉要助
- 向後三四郎
- 吉田真一
- 吉田松陰
- 吉川祐輝
- 吉井幸輔
- 吉井友実
- 司馬遼太郎
- 古島一雄
- 友安治延
- 南方熊楠
- 北里柴三郎
- 北白川宮能久親王
- 北条氏康
- 勝安芳
- 加藤高明
- 加藤恒忠
- 加藤弘之
- 加藤寛治
- 加藤嘉明
- 加藤友三郎
- 加納夏雄
- 副島種臣
- 前島密
- 前原一誠
- 内藤鳴雪
- 八木独仙
- 入江杉蔵
- 児玉源太郎
- 佐野常民
- 佐藤進
- 佐佐木高行
- 佐々木高行
- 住友友忠
- 伍廷芳
- 伊藤左千夫
- 伊藤博文
- 伊牟田尚平
- 伊東祐麿
- 伊東巳代治
- 伊地知正治
- 仙波太郎
- 仕立屋銀次
- 今川義元
- 井口省吾
- 井口五郎
- 井上馨
- 井上毅
- 井上桃之助
- 二宮忠八
- 九条道孝
- 九条節子
- 久松定謨
- 久坂玄瑞
- 乃木静子
- 乃木希典
- 乃木勝典
- 乃木保典
- 中牟田倉之助
- 中村覚
- 中村草田男
- 中村正直
- 中村不折
- 中岡慎太郎
- 中山忠能
- 上野彦馬
- 上杉謙信
- 三条実美
- ロジェストウェンスキー
- レルヒ
- ルーズベルト
- リリエンタール
- ライト兄弟
- モルトケ
- メッケル
- ミシチェンコ
- ポンペ
- ボイル
- ホルランド
- ベルツ
- ブラウン
- フォード
- ファビユス
- ヒンデンブルグ
- パークス
- ネルソン
- ニコライ
- ナポレオン
- ストルイピン
- ステッセル
- スコット
- サトー
- コープランド
- コッホ
- グラバー
- クロパトキン
- キヨソネ
- ウィリス
- ウィッテ
- アーベンハイム
- アムンゼン
- Recent Comments
- Links
-
- 坂の上の雲をさがして
児玉源太郎ファンのよっこさんのブログ。イラストは必見! - Kakkun's Workshop
幕末から「坂の上の雲」を紹介
(「坂の上の雲」の英訳は必見!) - 英雄・偉人のブランディング秘策
例えば、坂本龍馬のような事業家になれる方法?! - スゴブロ
日本初の"人力選別"ブログポータルサイト - 大人のブログ探訪
日経BP セカンドステージ
- 坂の上の雲をさがして
- Feeds
- Blog Parts















