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乃木希典 Archive
乃木希典、ドイツ留学より帰朝す
Social Bookmarks:- 2009年6月10日 00:12
- 1888年(明治21年) | 乃木希典

ドイツ留学中の乃木希典(陸軍少将、40歳ごろ)
1888年(明治21年)6月10日、乃木希典が約1年半のドイツ留学を終え帰朝しました。
しかし、帰国してからというものは、昔の磊落な振る舞いが一転し、古武士の風格を尊ぶような謹厳そのものに変貌し、乃木を知る人々を驚かせます。
この事については、著書『肉弾』で有名な桜井忠温も、次のように語っています。
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乃木将軍の出陣
Social Bookmarks:- 2009年5月26日 00:04
- 1904年(明治37年) | 乃木希典
乃木希典将軍が、日露戦争の出征に、いよいよ出発というその前日、東京の自邸で送別の宴を催したのが、1904年(明治37年)5月26日の事でした。
この日の将軍の日記に、
本日、皇太子殿下より拝領の清酒は、午後司令部にて分配。自宅にて鮨を作り、親族を招く。中尾氏勝武士(鰹節)一袋持参、葬式のこと遺言。夜11時廊を拝す
という簡潔な文面のうちにも、将軍の決意が記されています。
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乃木希典、山上雪中の新年宴会
Social Bookmarks:- 2009年1月 5日 00:01
- 1899年(明治32年) | 乃木希典

乃木希典将軍が、四国の善通寺第十一師団長だった当時の明治32年1月5日、琴平宮の鎮座する雪深い象頭山上で新年宴会を催したというお話があります。
正月5日に象頭山上新年宴会開催の事は、既に師団長より将校一同へ予告されていましたが、あたかも元日以来珍しい大雪が降り続いて、この分では登山は見合わせとなって、恐らく宴会会場も変更になるだろう、というのが将校一同の予想でした。
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乃木将軍の凱旋
Social Bookmarks:- 2008年12月29日 00:01
- 1905年(明治38年) | 乃木希典

日露戦争に武勲たる乃木希典将軍が、寒風吹荒ぶ満州の法庫門を出発、部下の将卒を率いて凱旋の途に就いたのが、1905年(明治38年)12月29日の事でした。
部下の将卒何れも歩一歩祖国に近づくを喜びましたが、乃木将軍ばかりは、少しも嬉しい様子がなく、寧ろ沈鬱にさえ見えました。
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乃木希典と次男保典少尉の戦死
Social Bookmarks:- 2008年11月30日 04:40
- 1904年(明治37年) | 乃木希典

写真左は乃木希典の長男勝典、右は次男保典
1904年(明治37年)11月30日、強行軍の末、遂に二百三高地を占領しました。
そのために多くの犠牲者を出しますが、その中に司令官乃木希典の次男乃木保典少尉も討死しています。
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9月13日は乃木祭(乃木希典の命日)
Social Bookmarks:- 2008年9月13日 00:03
- 1912年(明治45年) | 乃木希典
本日9月13日は、東京の赤坂を始め、京都、栃木県の西那須野町、山口県の長府町など各地に鎮座する乃木神社で例祭が執行されます。

乃木神社(東京赤坂)

京都乃木神社(伏見桃山)

長府乃木神社(山口県下関市)
言うまでもなく、1912年(大正元)年9月13日、明治天皇の御大葬の日に、乃木希典将軍夫妻が、天皇の御跡を慕って殉死された命日を例祭としています。
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乃木希典、連隊旗を奪われる
Social Bookmarks:- 2008年2月22日 00:19
- 1877年(明治10年) | 乃木希典
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乃木希典、学習院院長に就任 (2)
Social Bookmarks:- 2008年1月31日 00:04
- 1907年(明治40年) | 乃木希典
日露戦争の第三軍司令官として、旅順の堅塁に又は奉天会戦に殆んど辛酸を嘗め尽さざるを得なかった乃木希典将軍も、遂に強敵を倒して赫々たる勲功をあらはし、東京に凱旋すると間もなく、59歳の老齢でありながらも矍鑠(かくしゃく)たるものがあり、1907年(明治40年)1月31日には明治天皇の御思召により学習院院長を拝命しました。
乃木将軍が学習院長に任命されるや、院内にあって生徒と共に寝食を共にし、一月のうち数回しか自邸に帰る事は無かったという熱誠振りでした。
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乃木希典大将夫妻、殉死
Social Bookmarks:- 2007年9月13日 00:20
- 1912年(明治45年) | 乃木希典

乃木大将遺言書 直筆の一部
1912年(大正元年)9月13日、先の7月30日に崩御した明治天皇の葬儀が行われた今日、陸軍大将乃木希典が静子夫人とともに自殺しました。赤坂新町の自宅で発見された遺体の側には明治天皇の写真が置かれ、その前に遺書がありました。
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乃木希典の座右の箴、吉田松陰「士規七則」
Social Bookmarks:- 2007年7月 2日 00:01
- 乃木希典
乃木希典が17歳の頃、毛利家の儒者玉木文之進の食客となって、長州萩の明倫舘で学んでいました。
その時獄中にいた吉田松陰が玉木氏に宛て、「士規七則」を書いて送りましたが、少年時代の乃木はそれを見て非常に感動し、玉木氏に乞うてその書を譲り受け、肌身離さず所持して絶えず読誦しては精神の修養に努めたと云います。
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日露戦争と専売たばこの発売
Social Bookmarks:- 2007年7月 1日 00:14
- 1904年(明治37年) | 乃木希典
1904年(明治37年)7月1日、明治政府は専売たばこを売り出しました。

「たばこと塩の博物館」より転載
煙草の銘柄は佐佐木信綱の発案で、江戸期の国学者・本居宣長の歌、
「敷島の大和心を人問わば 朝日ににおう山桜花」
に由来しています。
この背景には、明治31年(1898)に日清戦争後の財政的要請で「葉煙草専売法」が施行されましたが、葉たばこの密売が横行し、目標の税収を得ることはできませんでした。しかし、日露戦争の戦費を調達する必要があり、政府はたばこの製造専売にふみ切り、明治37年(1904)7月に「煙草専売法」を施行します。
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乃木希典大将の好んだお酒、「天爵」
Social Bookmarks:- 2007年6月29日 00:05
- 乃木希典
写真は、三吉酒造の大吟醸酒「天爵(てんしゃく)」です。
これと同銘のお酒を、乃木希典大将が好んだということが、
旅順要塞をめぐる激戦を記した「肉弾」の著者・桜井忠温の
「将軍乃木」に記されています。
乃木さんは、日露戦争で出征の途中広島で飲んだ「天爵」という酒が非常に旨かったので、管理部で「天爵」を買い込んで持って行った。
乃木さんは「天爵」をのみながらも、心の悶えをどうすることも出来なかった。黙々として、杯を口にするような日がつづいた。桜井忠温著「将軍乃木」より
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日本最初の近代的植民地支配、台湾鎮定
Social Bookmarks:- 2007年6月11日 00:06
- 1895年(明治28年) | 乃木希典 | 児玉源太郎 | 聖徳記念絵画館
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山県有朋の七言絶句
Social Bookmarks:- 2007年3月 6日 00:12
- 乃木希典

(山県有朋参謀総長より乃木希典将軍宛て打電の激励の七言絶句)
絶句とは、漢詩の詩体の一つであり、起・承・転・結の四句からなります。一句が五字の五言絶句と七字の七言絶句とがあります。山県有朋はバルチック艦隊の東航が迫って来るというので、乃木希典に七言絶句の激励の電報を打ちました。
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義を見てせざるは勇なきなり
Social Bookmarks:- 2007年3月 4日 22:45
- 乃木希典
本日、TBSの「華麗なる一族」を見ていましたら、弁護士事務所のシーンで、
「義を見て為さざるは勇無きなり」
という額が掲げられているのが目につきました。
この意味は、「人として当然為すべき正しいこととわかっていながら、それを実行に移さないのは、勇気がないからである」という『論語』での言葉です。
子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為、無勇也『論語』為政
子曰く、其の鬼に非ずして之を祭るは諂うなり、義を見て為さざるは勇無きなり
弁護士のような戦う職業には「常に勇気が必要である」と戒めているのでしょうか。
戦う職業と言えば、本職は軍人となります。余談ですが、乃木希典が信奉した「武士道」にもこの精神が在ります。しかし解釈はもっとリアルです。新渡戸稲造は著書『武士道』において次のように説きます。
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乃木希典、学習院院長に就任 (1)
Social Bookmarks:- 2007年1月31日 00:05
- 1907年(明治40年) | 乃木希典
1907年(明治40年)1月31日、乃木希典は学習院院長に就任します。
以下は、乃木院長の学習院教職員に対する方針となります。
学習院教職に対する訓示
一、学生の行儀を正敷言語を明確にする為の注意(教員各自に於て)
一、教学聖君に則り各学科特に歴史国文等の上に応用して洩すなく我国体皇室武勇等を啓発するを要す
一、女学部に於て学生より先生に贈物の聞へあり之を禁止せり惣て受授の事は範義の大切なることを学生に迄訓戒する事必要なり
一、各教員交互に他授業を観ることの必要なること及び成るべく他校の事をも見せ申度希望の事
一、本校舎建築の事に付賢き辺の思召に対して注意を要する事
一、他校兼勤を可成可避事塚田清一著『乃木大将事蹟』より
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招魂祭
Social Bookmarks:- 2007年1月14日 00:24
- 1905年(明治38年) | 乃木希典
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旅順城入城式
Social Bookmarks:- 2007年1月13日 02:18
- 1905年(明治38年) | 乃木希典
1905年(明治38年)1月13日、乃木希典率いる第三軍の旅順城入城式が行われました。
乃木が大きなニコライ門を通って旅順に正式入城した日は太陽が輝き、この時分の天気には珍しい好天に恵まれた。入城式は簡単なものだった、とアシュミード・バートレットはつぎのように記している。「軍楽隊の演奏は人々が気楽に聞いておれる程度の貧弱なもので[行進する兵士たちの]敬礼はとてつもなく下手くそなのがときどき混じっており、多くの部隊は明らかに式典のやり方を忘れていた。(中略)
軍服は見る影もなくよごれ、繕いを必要とするぼろぼろの状態で、靴は大きく破れ、銃でさえもあまり立派な状態とはいえなかった。デニス・ウォーナー著『日露戦争全史』より
入城式の参列者は、少数の報道特派員、海軍武官、残留の旅順市民、看護婦が何人かといった程度でした。
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水師営の会見
Social Bookmarks:- 2007年1月 5日 00:05
- 1905年(明治38年) | 乃木希典 | 聖徳記念絵画館
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赤穂浪士と乃木希典
Social Bookmarks:- 2006年12月14日 00:48
- 乃木希典
1702年(元禄15年)12月14日、赤穂浪士が吉良邸に討入ります。
元禄十六年、いわゆる赤穂浪士のうち、武林唯七、間新六、岡島八十右衛門ら十人が死を賜っている。
話がさらにとびとびになるが、赤穂浪士というのは討入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そしてこの長府毛利家である。(中略)
要するに乃木希典がうまれて十歳まで育ったお長屋に、武林唯七らが起居していたのである。希典はこの死士たちの最後の日常などを、藩邸の伝承としてきかされつつ育ったにちがいない。『殉死』(要塞)より
乃木希典の生れた、麻布日ヶ窪の毛利邸(現、六本木ヒルズ)は、赤穂浪士四十七士の内、武林唯七以下10名がお預けになり、切腹をした屋敷であります。乃木の幼少時には、よく「お庭拝見」といっては、赤穂浪士の跡を偲ぶものがよく庭口の門から入ってくるのを記憶していたそうです。また、藩中にも武林唯七の書いた筆跡を所持している者も多くあったそうです。
赤穂浪士の墓のある高輪の泉岳寺は、毛利家の菩提所であり、藩公の命日には父十郎はお墓をお参りしました。希典が8歳の頃からは連れてお参りさせます。そして、藩公のお参りがすむと、次に必ず浪士のお墓へもお参りし、父は一人づつの前へ線香を二本づつ上げ礼拝し、幼い希典にも礼拝をさせたそうです。
また、母は浪士の話を希典によく話してきかせ、その時は粛然と容を正して、いかに赤穂浪士が立派な武士で、武士の手本とすべきであるかを熱心に説き聞かせたといいます。希典は錦絵や絵本を買ってもらっては、それを見るのをたいへん喜んだといいます。
後に、乃木希典が山鹿素行を師と考えて尊敬し、模範として学ぶようになるのは、大石内蔵助ら四十七士を薫陶した山鹿素行の生涯その人格を慕ったものであります。
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気転の利かぬ野狐を、七分小玉で打ち上げた
Social Bookmarks:- 2006年12月 6日 01:11
- 1878年(明治11年) | 乃木希典 | 児玉源太郎
「乃木、ひげが白くなったな」
と、児玉が馬首越しにいったのは、この男らしくもない感傷的なことばであった。かれはこの西南戦争以来の戦友の痩せ方のひどさにおどろいたのである。
(――乃木のいくさべた)
と、むかし児玉は乃木をからかったことがある。『坂の上の雲』(二〇三高地)より
1878年(明治11年)の頃、乃木希典が歩兵第一連隊長の時、佐倉の歩兵第二連隊長の児玉源太郎と習志野で対抗演習を行いました。
演習は敵味方の区別をするために、軍帽を白布で覆うのと覆わないのに分かれることになりました。この時、児玉軍が帽子に白布を覆うことになりました。そこで児玉は一計を案じ、見物に来ていた人に、男には鉢巻、女には頬被りをさせ、あちらこちらに散らばせました。乃木軍はそのおとりに目をくらませられ、その隙をついて、児玉軍は本物の部隊で乃木軍を攻撃し打ち負かしてしまいした。
結果、審判の総評は児玉軍は七分、乃木軍は三分という採点をつけました。この当時はそういった採点の仕方で、引き分けの場合はいわゆる五分五分という採点となります。
喜んだ児玉源太郎は、「気転の利かない野狐を、七分小玉で打ち上げた」という歌を作って、それに節をつけ、兵隊にうたわせながら、習志野を去っていつたといいます。
「気転の利かない野狐」とは「キテン(希典)の利かないノギ(乃木)ツネ」をもじっており、「七分小玉」とは七分勝ちで打ちのめしたという意味に、さらには一寸にも満たない小さなコダマ(児玉)、つまり身長の低い児玉が長身の乃木を打ち負かしたと皮肉っています。
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二〇三高地陥落
Social Bookmarks:- 2006年12月 5日 00:30
- 1904年(明治37年) | 乃木希典 | 児玉源太郎
1904年(明治37年)12月5日、乃木第三軍がついに旅順要塞攻略戦の帰趨を決するニ〇三高地を占領しました。
児玉は成功した。
かれは砲兵陣地を大転換することによって歩兵の突撃を容易ならしめ、六千二百の日本兵を殺したニ〇三高地の西南角を一時間ニ十分で占領し、さらにその東北角をわずか三十分で占領した。明治三十七年十ニ月五日である。『坂の上の雲』(二〇三高地)より
乃木司令官は、二〇三高地における第一師団の苦戦をみて、予備軍の第七師団を投入します。直後、第三軍の司令部に到着した児玉源太郎総参謀長は、乃木希典に同意の上で、第三軍参謀らを怒声と共に叱咤督戦し、精力的に作戦指導にとりかかります。
児玉は、歩兵のみでは二〇三高地を落とせないことを理解しており、砲兵の柔軟で集中した運用を図ります。重砲兵の一六四高地への再配置を完了した児玉は、12月5日午前8時15分、二八サンチ榴弾砲をはじめ多くの大砲をもって、二〇三高地への砲撃を開始します。
同日午前9時15分、第七師団の歩兵部隊が頂上を目指して突撃を再興、同夜頂上の占領に成功しました。
二〇三高地も含めて第三回総攻撃の日本軍は戦死5,512名、戦傷11,883名。
第七師団は10,403名参加、戦死1,982名、戦傷4,224名。
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第三回旅順総攻撃開始
Social Bookmarks:- 2006年11月26日 00:02
- 1904年(明治37年) | 乃木希典
1904年(明治37年)11月26日、乃木大将率いる第三軍は第三回目の旅順総攻撃を行います。
乃木軍の今までの攻撃は、
6月26日、剣山攻撃、旅順攻略戦開始
7月26日、前進陣地への攻撃開始
8月19日、第一回旅順総攻撃
9月19日、前進堡塁群への攻撃開始
10月26日、第二回旅順総攻撃
と、26日を好む傾向がありました。
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旅順陥落(日清戦争)
Social Bookmarks:- 2006年11月21日 01:14
- 1894年(明治27年) | 乃木希典
1894年(明治27年)11月21日、大山巌大将率いる第二軍は旅順攻撃を開始します。
第二軍の旅順攻撃は、大山巌が決定した予定どおり、二十一日の払暁、寒気をついて開始され、主力諸隊が前進した。この間秋山支隊は主力の右側の援護に任じ、椅子山の西方に位置し、一方、鳩湾まで進入してきた艦艇と連絡しつつ、優勢な敵を釘づけにした。『坂の上の雲』(日清戦争)より
「半年はかかる」
といわれた旅順要塞は、おどろくべきことにまる一日で陥ちてしまった。
日清戦争における旅順要塞は重要拠点でした。
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乃木希典、誕生
Social Bookmarks:- 2006年11月11日 00:51
- 乃木希典
1849年(嘉永2年)11月11日、乃木希典が誕生します。
乃木希典は毛利家支藩長府毛利氏の士乃木十郎希次と寿子の第三子で、江戸麻布日ヶ窪 (現、六本木ヒルズ)に生れます。幼名を無人と云い、幼い時には3歳下の妹にさえ度々泣かされたというほど気弱温順な性格であり、一方では兄弟思いで妹達のお守りをしたりその髪を結ってやったり、また器用に針を使って縫物をするという男らしさよりも女らしさを多分に持った少年でした。
乃木家は醫(い)と儒をもって仕え百石を食むでいました。父の希次は兵書を好み、深く無事に心を傾け、また弓術にも秀で京都の三十三間堂に通し矢を試みた程の腕前でありました。しかし、乃木希典が11歳の時、父希次は藩侯に諫言したことにより、譴責処分となり藩地に追返され、減禄の上閉門となります。
十郎希次は妻子を伴って長府に着し、町の片ほとりに三百坪ばかりの地を購入し、その一隅にあった足軽長屋をそのまま住宅とします。この家は六畳、三畳、二畳の三間にすぎず且つ雨漏り、畳は破れ住むに耐え難いほどであったが希次は意にも介せず平然として住んでいたが、武具だけは立派なものを飾ったといいます。しかし、譴責処分が解かれるまでは衣食に不自由すること往々であり、乃木希典は苦しい少年時代はおくりました。
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乃木大将は水泳が苦手だった
Social Bookmarks:- 2006年11月 5日 23:02
- 1907年(明治40年) | 乃木希典
1907年(明治40年)、学習院の院長に就任した乃木希典大将は剣道と水泳に力を注ぎます。剣道、水泳ともに精神を養うのにとても重視したといいます。
乃木大将が学習院長になってから、夏の水泳部は、院創立以来の好成績であったといいます。学習院の遠泳試験は江ノ島から逗子まで海上約8キロばかりを泳ぐそうで、毎年多数の落伍者があるのに、その年に限っては一人も出なかったといいます。聞けば、遊泳中に落伍しそうなものが出ると、仲間の者が手を引いて助け、
「そら乃木さん! そら乃木大将!」
「そら旅順口! そら旅順口!」
と同様に調子をとって掛声をして励まし、弱った者もその名によって感奮して泳いだからだといいます。
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学習院、開校
Social Bookmarks:- 2006年10月17日 02:17
- 1877年(明治10年) | 乃木希典
1877年(明治10年)10月17日、東京神田町に学習院が開校します。明治天皇、皇后が臨席して開校式が催されました。
惟るに汝等能く旨を奉し此校を協立し開業の典を行う其志し嘉すへし嘗て仁孝帝京都に於いて学習院を建て諸臣をして就学せしむ 朕今先志を紹述し本校を名けて学習院と号す冀はくは汝等子女をして黽勉時習せしめ以 皇祖の前烈ヲ恢張せよ『学習院開校式に臨御の節賜はりし勅語』
学習院は宮内大臣の直轄に属し、華族の師弟を教育し、国民の模範となる人物の育成することにありました。
なお乃木希典大将は10代目の院長となります。
いさをある人を教への親として 生ふしたてなむ大和なでしこ
これは明治天皇が乃木大将を学習院の院長に命じ、華冑の子弟教育を命ぜられた時に賜った歌です。でも乃木大将は拝命を辞退したいと考え、友人に相談します。
しかし、友人より、
「怪しからん、恐れ多くも陛下が御命じになったのは、普通の教育をしろとの意味ではあるまい。華冑子弟の精神教育をしろと御命じになったのであろうぞ」
と言われ、それならばとついに決心いたします。
それではということになり、祝杯を挙げようと友人が葡萄酒を抜くと、乃木大将は、
「いかんいかん」
と言って、手を振って止めて、
「日本酒で」
と言いました。
日本人の精神教育にはやはり日本酒であるという乃木大将。
口先だけではない真の教育者です。
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乃木希典と廃兵
Social Bookmarks:- 2006年9月26日 23:24
- 乃木希典
乃木希典は一月の間に廃兵院に何度も足を運んだそうです。廃兵とは戦争により手や足を失ったとか、失明した兵士のことであり、乃木は御所や宮殿下からお菓子を頂戴したり、または知人から何か贈物があると、すぐに廃兵院へ見舞いとして持って行ったそうです。(写真は巣鴨にある廃兵院跡の石碑です。)
また、乃木は煙草を手にすると三度に一度は必ず、
「手のなくなったものは、これが出来なくて可哀相だな。何とかしてこれを採って喫むことの出来るような工夫がないものだろうかな」
と繰返し繰返し言ったそうです。
そこで、どうかして煙草をのみ、盃を取れるように義手を作ってあげたいと考え、義手に関する数々の書物や各種の標本や図を見て研究し、それを砲兵工廠に持ち込み相談し、とうとう作り上げることに成功しました。廃兵院で、廃兵の作品中とくによく売れるのは、「乃木式義手」と名づけられたこの義手によって描かれた絵だということだそうです。
この義手は一具作るのに50円もかかりました。それを乃木は勲功で賜った年金を当て自費でこの義手を作ったとのこと。日露戦争において自ら指揮し戦傷した兵士のために、乃木はそれを遠くの廃兵に送ったり、また自ら出かけて行って着けてあげたそうです。
謹啓
大将閣下より特に義手を賜り有難く拝受仕り候、依て自筆を以て御礼奉り申し上げ候 敬具
明治二十九年十二月二十一日
柿沼要平
乃木大将閣下
御執事御中
と、義手を送られた廃兵が綴った礼の手紙に、乃木は涙して喜んだとのことです。
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乃木希典・静子夫妻殉死
Social Bookmarks:- 2006年9月13日 22:23
- 1912年(明治45年) | 乃木希典
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乃木希典、学習院生を坊主にする
Social Bookmarks:- 2006年8月22日 01:19
- 1907年(明治40年) | 乃木希典
日露戦争後の1907年(明治40年)、乃木希典大将は華族学校である学習院長となります。初めての出仕の日、紅顔の生徒を引見して乃木大将は潸然とします。
嘆じて曰く、
藩屏徒に美にして脆きこと瓦の如く、父祖は国に殉じ子孫は修飾に耽る、殷鑑遠きに非ず、咄何者の子弟か、髪を伸べ香水を塗って婦女子の頻に倣う『名士奇聞録』(明治44年刊)より
乃木大将は万校の生徒を喝して、そしてことごとく頭を五分刈りにしていったといいます。
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表忠碑
Social Bookmarks:- 2006年5月11日 22:31
- 乃木希典
驚 皇 千 有
世 軍 年 死
功 十 誰 無
名 万 見 生
是 誰 表 何
此 英 忠 足
時 傑 碑 非
死あって生なし何ぞ悲しむに足らん
千年誰か見ん表忠碑
皇軍十万誰か英傑
世を驚かすの功名これ此の時
この漢詩は、二百三高地が陥ちた後に乃木希典と児玉源太郎は詩会をおこない、その時に乃木が詠んだ詩です。
意味は、
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明治の美人 - 末弘ヒロ子
Social Bookmarks:- 2006年4月16日 06:58
- 1908年(明治41年) | 乃木希典
写真は1908年(明治41年)に日本初の美人コンテストで見事1位に輝いた末弘ヒロ子さん(当時16歳)です。
主宰はアメリカの新聞社「シカゴ・トリビューン」で、その依頼を受けて日本の「時事新報社」が令嬢を対象に美人写真大募集を行いました。
厳しい審査の結果、日本一の美人に選ばれたにもかかわらず、彼女には不幸がおとずれます。彼女は当時女子学習院中等科に在籍していました。学習院といえば風紀を重んじる校風。ましてや当時学習院院長であったのが、これまた軍紀に厳しかった乃木希典であるからなおさらのこと。乃木はこの結果に「けしからん!」と猛反対します。そして、乃木院長はヒロ子に退学を命じます。
当時の新聞記事に掲載された学校側の意見は、
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乃木公園
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Home > 乃木希典 Archive
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