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明治の人々 Archive

李鴻章狙撃事件と軍医佐藤進の功績

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佐藤進
佐藤進

1895年(明治28年)3月24日、日本にとって誠に忌まわしい不祥事が起りました。

この日午後4時、下関に滞在中の清国の講和全権大使李鴻章は、最終日の講和談判を終えて、春帆楼から旅館の引接寺へ帰る途中、外濱町に掛かろうとする折しも、小山豊太郎という一凶漢のため左眼下を狙撃されます。

気丈な李は傷口を抑えて宿所へ引揚げますが、この椿事に、談判出席の諸大官何れも上を下へとうろたえ、即夜東京大学医学部教授佐藤進博士に出張治療の大命を下します。

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木戸孝允の「上野公園」解放運動

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上野
上野

1868年(慶応4年)5月15日に、上野に立て篭もった幕府の残党彰義隊も、官軍の力戦のため僅か一日の戦闘で潰滅して終りましたが、その為に上野の山は兵火にかかってほとんど焦土と化し、戦後は四方の門扉を固く鎖し、市民の出入りを一切禁じてしまったのでした。

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「早い、安い、楽ちん」、人力車を発明した和泉要助

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人力車
合乗りの人力車

日本の交通文化の特異である人力車が発明され、その営業願が東京府役所に届けられた最初の記録が、1870年(明治3年)3月17日でありました。

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日本で初めて靴を造った男、西村勝三

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西村勝三
西村勝三の銅像

本日3月15日は、「靴の日」となります。

その謂われは、江戸の幕末に始まった「西洋式軍隊調練」に端を発します。

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山岡鉄舟、駿府城に乗り込み西郷隆盛と会見する

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山岡鉄舟

1868年(慶應4年)3月9日、西郷吉之助(西郷隆盛)が駿府に江戸城討入の本陣を置いて、しきりに術策を廻らしていた所へ、江戸の使者として訪ねて来たのが、幕府麾下にその人ありと知られた山岡鉄舟でした。

山岡鉄舟は幕臣としての地位はさほど高くはありませんでしたが、頗る理事に通じ、国家を思う赤誠に富み、剣の道にかけても稀に見る達人でした。

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熊本城の窮地を救った漢、谷村計介(西南戦争)

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西南戦争中の1877年(明治10年)2月28日は、密使谷村計介が熊本城の危急を、本陣の野津鎮雄少将の告げるべく、その大役を果たしたという日です。

鹿児島の私学党軍3200の大軍に包囲された熊本城は、事の急を救援本隊に知らせるため、連隊谷干城は、決死の密使を命じます。

さて、その命懸けの密使を誰にさせようか?ということになり、人選の結果、一人の男が選ばれます。

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山本権兵衛の誓約書

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山本権兵衛海軍兵学校の寄宿舎にいたとき、近くの品川青楼に新潟の漁村から売られてきたばかりの可憐な娘を、弟や同僚とと力をあわせ、脱出させたことがあります。

のちにこの娘は山本夫人登喜子となります。

1878年(明治11年)11月16日に二人は結婚しますが、山本はその4ヶ月前に婚約者に誓約書を書いています。

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落語界中興の祖、三遊亭円朝

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1900年(明治33年)8月11日、落語家の三遊亭円朝が、脳膜炎のため、下谷車坂町の自宅で亡くなります。享年62歳。

三遊亭円朝

この円朝、『坂の上の雲』では小村寿太郎の逸話の引き立て役で登場しています。

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「坂の上の雲」を掴もうとした男、二宮忠八 (1)

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1891年(明治24年)4月29日、丸亀の歩兵連隊に在営中の二宮忠八が作った模型飛行機が、世界で初めて飛行に成功しました。この模型飛行機は、紙で作られてはいますが、プロペラ式のゴム動力で10メートルほどの距離を飛んだといいます。

二宮忠八は1866年(慶應2年)に愛媛県宇和島の出身で、少年時代は「凧張り忠八」と呼ばれたほど凧揚げに熱中していました。余談ですが、二宮が生れた後の2年後に誕生する同じ愛媛県出身の秋山真之は少年時代は「秋山の凧」と呼ばれています。といっても、凧に描く絵が上手だったということですが。

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子規の詩文の先生、河東静渓

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1894年(明治27年)4月24日、河東静渓が逝きました。享年65歳。

二年生の秋の大試験で子規は学業優等になり、そのほうびとして学校から数人の者が頼山陽の「謝選捨遺」という書物をもらった。ところが少年の学力ではそれがむずがしく読めなかったため、
「河東静渓先生の弟子になろう」
と申し合わせて入門した。
坂の上の雲』(真之)より

河東静渓は竹村黄塔、河東銓、河東碧梧桐の父であり、旧松山藩の漢学者でした。子規は友人らとともに千舟学舎の河東静渓から八大家文などの講義を聴き、詩の添削を求め、多大な感化をうけました。

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子規の祖父、大原観山

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1875年(明治8年)4月11日、正岡子規の祖父・大原観山が永眠しました。(享年58歳)

観山は松山藩の儒者で詩文に長じ、識見気節高く、藩政の上にも数々の功績を残しました。

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東郷平八郎に嫌われた山屋他人

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秋山真之が、海軍大学校から常備艦隊の参謀に転出するについては、いきさつがあります。

坂の上の雲〈3〉すでに海軍では、対露外交がゆきづまりつつある情勢から、極秘裏に開戦を決意し、戦いのための人事を決定しつつあった。
海軍省人事局が、その戦いの人事についての事務局になっている。まっさきに、艦隊作戦のすべてを、三十六歳の少佐秋山真之にやらせることを決定した。
同時に、司令長官を決定した。司令長官は舞鶴鎮守府長官という閑職にある中将東郷平八郎を抜擢することであった。

坂の上の雲』(風雲)より

早速、人事局は司令長官となった東郷平八郎に、幕僚人選の原案を見てもらいます。

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小村寿太郎も読みあさった、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)1890年(明治23年)4月4日、「ハーパース・マンスリー」誌の通信員ラフカディオ・ハーンが来日します。

ラフカディハーンは1850年6月27日、ギリシャ駐在のイギリス軍医とギリシャ女性の次男として生れます。生後1年半でイギリスに帰るが、6歳の時両親が離婚。以後長く母への思慕と父への反感を抱き続けます。

13歳のとき、学校の遊戯中に左眼を傷つけ失明。19歳でアメリカに渡り、「シンシナティ・インクワイアラー」紙の新聞記者となります。その後フランス文学などの翻訳紹介や西インド諸島の探訪記事を出版します。この頃より、東洋や日本への関心をもち始めます。

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智謀神のごとし、メッケル来日

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1885年(明治18年)3月18日、プロシア(ドイツ)よりクレメンス・ヴィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐が、日本陸軍の再建の為、陸軍大学校教官に着任しました。

真之が英国式教育をうけているこの時期、陸軍大学校在籍中の好古は、ドイツ人を師としていた。
以前に触れたプロシャ陸軍の参謀将校メッケル少佐である。その着任は明治十八年三月十八日で、それ以前から、
―― 智謀神ノゴトシ
といううわさが、すでにきこえていた。
余談ながら、のちに日露戦争を勝利にみちびいた日本軍の高級参謀将校のほとんどがメッケルの門下生であり、メッケルの在任は明治二十年前後のわずか数年の期間ながら、その門下生たちはよくその教えをまもった。のち、この間のことが極言されて、
日露戦争の作戦上の勝利は、メッケル戦術学の勝利である」
とさえいわれたほどであった。
坂の上の雲』(海軍兵学校)より

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宮中に制度取調局を設置、長官は伊藤博文

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1883年(明治16年)に実力のある右大臣岩倉具視が死去し、太政大臣三条実美、左大臣有栖川宮熾仁(たるひと)親王は指導力・意欲ともに欠けて十分な役割を果たさず、政治を実質的に担う参議たちは、天皇周辺の宮中勢力、さらには明治天皇その人にも振り回されていました。

このような状況のなか、ヨーロッパでの憲法調査から帰国した伊藤博文の提案により、1884年(明治17年)3月17日、宮中に制度取調局が設置されました。制度取調局は立憲政治の導入を前にして、諸制度の改革を目的とした政府機関となります。

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二・ニ六事件の奇跡、不死身の鈴木貫太郎

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1936年(昭和11年)2月26日、35年ぶりに大雪となった東京で、陸軍皇道派の青年将校らを中心とするクーデタが起こりました。世に云う「二・二六事件」です。

第一師団の歩兵第一・第三連隊を主力とした将校・下士官・兵1485人が、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げ、
  ・岡田啓介首相(生存)
  ・斉藤実内大臣(即死)
  ・高橋是清蔵相(即死)
  ・鈴木貫太郎侍従長(重傷)
  ・渡辺錠太郎教育総監(即死)
  ・牧野伸顕前内大臣(生存)
を襲撃し、永田町・三宅坂一帯と日本の政治・軍事の中枢部を4日間占拠しました。

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外債募集! 高橋是清の奮戦

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1904年(明治37年)2月24日、日銀副総裁の高橋是清は、秘書の深井英五(のちの日銀総裁)とただ二人、横浜からアメリカに向かいます。二週間前に始まった日露戦争の戦費調達のために外国公債を募集するのが目的でした。

坂の上の雲〈4〉その金の調達に、日銀副総裁の高橋是清が、調査役の深井英五をつれてヨーロッパをかけまわっていた。ひややかに観察すれば、これほど滑稽ないそがしさで戦争をした国は古来なかったたにちがいない。
高橋が最初、この使命のために横浜を出帆したのは、この年の二月二十四日である。ロシアに宣戦してから、半月後であった。

坂の上の雲』(遼陽)より

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鳴雪忌

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内藤鳴雪
松山藩時代の内藤鳴雪

1926年(大正15年)2月20日は俳人・内藤鳴雪の忌日です。

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島村速雄、第二戦隊司令官となる

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1905年(明治38年)1月18日、島村速雄は第二戦隊司令官となります。

この日、鎮海湾付近は小雨模様であった。藤井鮫一大佐の汽艇が三笠に近づいたとき、煙雨のなかにカッターが一隻あらわれた。「どなたか」と藤井がきくと、その艇の水兵が「島村閣下です」と答えた。
第二艦隊第二戦隊司令官の少将島村速雄のことである。島村はごく最近まで東郷の参謀長をつとめていたが、いまは加藤友三郎に後をゆずって戦隊司令官になっている。
坂の上の雲』(艦影)より

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南方熊楠(みなかたくまぐす)、死去

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南方熊楠
南方熊楠

1941年(昭和16年)12月29日、植物学者・民俗学者の南方熊楠が亡くなりました。(享年75歳)

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時代の要求を代表したるもの、福沢諭吉

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福沢諭吉
福沢諭吉

1834年(天保5年)12月12日、福沢諭吉が誕生します。

「秋山の兄さん、この世の中で」
と子規はきいた。
「だれがいちばんえらいとお思いぞな」
(中略)
「あしは会うたことがないが、いまの世間では福沢諭吉というひとがいちばんえらい」
と、好古は著書をいくつかあげていったがこの返事は真之にも子規にも意外であった。好古は軍人だから軍人の名をあげるかとおもったのである。
坂の上の雲』(騎兵)より

福沢諭吉が凄いのは、彼の出す本は"爆発的に売れる"ということです。

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水軍研究の第一人者、小笠原長生

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1900年(明治33年)の秋、秋山真之は米・英海外留学帰朝後ほどなく胃腸を病み、長与病院に入院します。

坂の上の雲〈3〉小笠原長生大尉が見舞いにゆくと、
「あなたの家に、海賊戦法の本がないか」
と真之はたずねた。
小笠原長生は、九州の唐津の大名だった小笠原家の当主である。そういう家だけに、なにかふる本があるだろうと思ったのである。
「さがしてみよう」
と、小笠原は家に帰り、旧家臣などにたずねたりして、めずらしい本をさがしだした。
能島流海賊古法
という写本で、五、六冊から成っている。

坂の上の雲』(十七夜)より

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桂太郎、ニコポン式で実をとる

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1913年(大正2年)の本日10月10日は、日英同盟日露戦争遂行に尽力した首相・桂太郎の命日です。

桂太郎は、横に広がった大きな頭に額も広いから「巨頭公」とか、肥満だったから「大黒」とか、様々なあだ名がありますが、その中でも有名なのが、

「桂は、サーベルを吊った幇間(たいこもち)だ」
とのちに酷評されたり、ひとを懐柔するためにたえず惜しみなく笑顔をつくり、親しみをみせるために肩をたたいたりしたことによって、ニコポンというあだなをもらったりした。いわば調整の名人であった。
坂の上の雲』(外交)より

と、桂は「八方美人」的なところがあり、伊藤博文に依頼して当初対立していた政友会と妥協したり、その一方では憲政本党を懐柔したりと、政党の気勢を巧みに殺いで議会にのぞむことから、これをニコポン式いいました。

ニコッとほほえんで、ポンと肩を叩いて八方まるくおさめるのでニコポン宰相と呼ばれました。

後藤新平の転機

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愛知医学校趾

名古屋市にある愛知医学校跡(名古屋大学医学部の前身)です。

後藤新平

1874年(明治7年)西本願寺別院に仮病院付属として設置された医学講習所が、公立医学所と改称され、1877年(明治10年)、この地(中区栄1丁目)に移り、翌年、公立医学校と改称され、同時に病院から独立しました。1881年(明治14年)には愛知医学校と改称され、そして愛知病院兼愛知医学校長に24歳の後藤新平が任ぜられました。

このことが後藤新平にとって大きな転機を迎えることになります。

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正岡子規も夢中にさせた坪内逍遥

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坪内逍遥少年時代の住居址

 子規はその後大学予備門の生活のなかで、かれがもっとも熱中している文学のことに関しては、東京専門学校坪内逍遥から多くの影響をうけた。
「逍遥の『当世書生気質』をよんだのは東京へ出て早々じゃったが、おおげさにいえば読みおわったあとは気が立ってねむれなんだ」
「そのあと、『妹と背かゞみ』が出たときは、これは書生気質以上じゃと思うた」
(『坂の上の雲』一巻「ほととぎす」より)

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秋山真之の師匠、宇都宮三郎

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秋山真之は世界中の兵書という兵書を読んだ。

中国の兵書である「孫子」「子」はくり返して読み、欧米のものは戦史、戦術書をふくめことごとくよんだ。(中略)
日本のものも読んだ。そのなかでもっともすぐれたものとして、かれはいつも山鹿流軍書をあげた。(中略)
武田信玄の甲州流軍学にも、多くのものを得た。
これだけは独学ではなく、それを解釈してくれる師匠をさがしだして、それについた。師匠は宇都宮三郎という。

(『坂の上の雲』十七夜)

ということで、本日はこの宇都宮三郎の出生地を訪ねてみました。
(名古屋市新栄3丁目 名古屋市立中央高等学校)

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長岡外史の訪問振り

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長岡外史中将は軍人中でも非常な交際家であって、それも自分の同輩が一級でも上になると早速訪問に及ぶ。訪問の時は役者の声色で玄関から飛び込みかと思うと、「やあ今日は一の谷の逆落としだ」と勝手口からニョコッと来る。

しかし自分がまた同級になると、決して訪問しないと云う。

これを軍人仲間では長岡流の兵法と呼ぶ。

戸水寛人の日露比較説

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ハイカラ-珍談法学博士戸水寛人がロシアを漫遊し、シベリア鉄道を見学してこう談じた。

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独眼流将軍、山地元治

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兵営百話陸軍の独眼流将軍と呼ばれる猛将山地元治についての挿話。

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どこまでも武人、島村速雄

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人物画伝島村速雄ほど非の打ちどころがなく、またどこまでも武人として賞賛される人はいない。平生自ら人を待つに寛、身を持するに厳、部下の過ちを正すにこれを責めずして自ら覚らしめ、海軍大学校においては生徒に与える訓諭の如き、機を利し節に合い、言々適切にして皆これを尊重したという。

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泥棒に見込まれるだけの資格、小村寿太郎

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現代百家名流奇談外務大臣小村寿太郎は一向外飾張らぬ無頓着な性質である。以前全権公使をやっていた時に、賜暇帰朝の許可を受けて日本に立ち戻った際、久々に日向の飫肥へ帰省したことがあった。郷里の友人達は小村が久しぶりの帰国だというので、同人の為に歓迎の宴を開いてくれた。

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メッケルを打ち負かした男、小川又次

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兵営百話明治陸軍は高等武官養成の為に1884年(明治17年)陸軍卿大山巌が渡独してドイツ士官の招聘を要請、モルトケ参謀総長の推薦により、ドイツからメッケル少佐を雇って参謀本部においた。その当時「今兼信」と呼ばれた小川又次中将も参謀本部出仕であった。

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山岡鉄舟、自筆の贋物を買う

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名流百話一刀正伝無刀流の創始であり、また弘法大師入木道五十二世の継承者でもある山岡鉄舟の書は一世に鳴り、床屋、温泉場、寄席、待合等いたるとことに珍重された。

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岩崎弥太郎の悪戯

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維新後に於ける名士の逸談

三菱財閥のもとを築いた天下の岩崎弥太郎にとって、目の上の瘤といえば渋沢栄一であった。岩崎はこの渋沢をどうにか困らしてやろうと考え、明治14年のこと、岩崎は自分の名を伏せた4人の名義で渋沢の第一国立銀行に100万円を預けた。

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鼻垂れ小僧が大臣に、西郷従道

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西郷従道の少年時代は「愚物」と見られていた。

はじめ伊地知正治に就いて、兵法を学んだが記憶力がすこぶる鈍く、百遍聴いても一字くらいしか覚えぬので、さすがの伊地知も困り果てたという。

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徒党と政党、福沢諭吉のおどろき 

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1862年(文久2年)、イギリスに渡った福沢諭吉はおどろいた。

日本では3人以上、ひそかに申し合わせするものを徒党といって禁止されているのに、この英国ではどうだ。政党というのがあって、おおぴらに政権の交替を争うという。イギリスでは政府を非難しても罰せられない。こんなことで一国の政治が行われるとは不思議千万。いろいろ聞いてみたが、わかったようなわからぬような...

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秋山真之の予見、山路一善の功績

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第一次世界大戦を観戦した秋山真之の言葉です。

兎に角潜水艇と云い飛行機と云い、今度の戦争が初舞台で、未だ其応用の初期に属し尚ほ発達の前途は遼遠と云ふべきものである。然し人智の向上には際限なく、今に戦艦が水中を潜り、巡洋艦否な巡天艦が空中を飛行する時代が到来して、平面戦闘が立体戦闘に推移すべき筈で、一戦を経る毎に一歩一歩と其階段を上りつつあるのである。

『秋山海軍少将 軍談』より

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国防は軍人の専有物にあらず

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本日の「その時歴史が動いた」は日本海軍の三祖のひとり「加藤友三郎」でした。

坂の上の雲」では日本海海戦で「取り舵いっぱい」の台詞と、秋山真之を「このバカが」と叱咤するぐらいの地味な方でしたが、その後の活躍は目覚しく、

特にワシントン軍縮会議における名台詞、

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鈴木貫太郎

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1月18日は、"鬼貫太郎"こと太平洋戦争末期の総理大臣"鈴木貫太郎"の誕生日であります。(太陽暦です)

日清戦争日露戦争、二・二六事件、太平洋戦争と何度も死の淵を経験しながらも行き抜いた彼は尊敬に値します。

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