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    <title>「明治」という国家</title>
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    <updated>2010-07-12T22:33:21Z</updated>
    <subtitle>明治時代の出来事を写真や文献を交えて、「今日は何の日？」という形でご紹介します。</subtitle>
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    <title>江戸で初めて電信機の見学</title>
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    <published>2010-07-12T15:07:33Z</published>
    <updated>2010-07-12T22:33:21Z</updated>

    <summary> 阿部正弘 1855年（安政2年）7月13日、江戸のお浜屋敷で、初めて電信機を観...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="阿部正弘" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/abe.jpg" width="250" height="318" class="mt-image-none" style="" /></span>
阿部正弘

1855年（安政2年）7月13日、江戸のお浜屋敷で、初めて電信機を観たという記録が『村田範正日記』に記されています。お浜屋敷とは今の浜離宮恩賜庭園に当たります。

時の老中阿部伊勢守正弘は同役の久世大和守や新若年寄の鳥居、本多等と一緒にオランダ渡りの電信機を初めて観たというが、実はそれより2年前の嘉永6年6月に、神奈川の浜で電信の実験をしたのが、日本最初の電信の実験で、アメリカの提督ペリーが来航した時のお土産の一つでした。

]]>
        お濱邸の電信機は、オランダ渡りではなくアメリカ渡りのペリーの土産をいつの間にかここへ運んで、珍しいままに老中以下の見学に供したものと察せられます。

こうして2回まで電信機の見学をしながらいたずらに「紅毛の魔法」だと驚異の眼をむくばかりで、遂に実用化まで進まなかったことは残念ではありますが。
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    <title>征長幕軍の敗退（第二次長州征伐）</title>
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    <published>2010-06-17T14:10:00Z</published>
    <updated>2010-06-17T14:10:35Z</updated>

    <summary> 高杉晋作、坂本龍馬等が相協力して、幕府の征長軍に抗して、馬関海峡に火蓋を切った...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="高杉晋作と坂本龍馬" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/takasugi_ryoma.jpg" width="450" height="321" class="mt-image-none" style="" /></span>

高杉晋作、坂本龍馬等が相協力して、幕府の征長軍に抗して、馬関海峡に火蓋を切ったのが、1866年（慶応2年）6月17日の事でした。

将軍徳川家茂自ら総大将で大阪へ陣を進め、各藩兵相呼応して幕府軍は、海に陸に四方から押し迫って来たが、高杉晋作は奇兵隊を組織して、頑としてこれに抵抗したのでした。]]>
        <![CDATA[一方土佐藩の坂本龍馬は、義憤遣る方無く軍艦ユニオン号に搭乗して、応援のため長府に来航したのが、その前日の16日でした。

晋作は満面喜色をたたえて、

<strong>「百万の味方より有難し」</strong>

と彼の来援を喜び迎え、17日には機先を制して馬関海峡の突破を企て、高杉の軍艦丙寅丸が発亥丸、丙辰丸を従え、坂本のユニオン号が庚申丸を率いて海峡に向い、豊前の幕府軍に先ず大痛撃を与え、翌18日には田の浦を占領するという具合で、その鋭鋒正に当るべからずでありました。

思えば文久3年の夏依頼、長州藩にとっての大受難でした。]]>
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    <title>井上聞多と伊藤俊輔、俄かの帰朝</title>
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    <published>2010-06-10T00:12:00Z</published>
    <updated>2010-06-10T00:13:04Z</updated>

    <summary> 伊藤俊輔（左）と井上聞多（右） 井上聞多（後の井上馨侯爵）と伊藤俊輔（伊藤博文...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="伊藤俊輔と井上聞多" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/ito_inoue.jpg" width="450" height="316" class="mt-image-none" style="" /></span>
伊藤俊輔（左）と井上聞多（右）

井上聞多（後の井上馨侯爵）と伊藤俊輔（伊藤博文公爵）とが、馬関戦争の報に驚き、遊学中のロンドンから、急いで帰朝したのが1864年（元治元年）6月10日の事でした。

その前年の5月12日、海外の文化に憧れた両人は、手に手を取って外国船に乗込み、ヨーロッパ遊学の密航を企て、先ず英京ロンドンに上陸して、当時日本とは格段の先進国あった彼の地の新文化に驚異の眼を瞠り、政治に学術に風俗に、あらゆる点に於て大いに学ぶ処があり、翻って立後れた祖国の文化を歎き、鎖国主義の幣をつくづくと感じたのでした。

滞留一年も充たぬうちに、たまたま故国の長州が、攘夷主義を実行に移し、外国船と放火を交えて戦闘していると伝え聞き、両人共事の意外に駭然としたのでした。]]>
        <![CDATA[西洋諸国とは交誼を厚くして、宜しくその文化を移入すべきであるのに、却って外国船を打払うというのは時代錯誤であり、世界の情勢を知らぬ井の中の蛙だと嘆じ、とにかく一刻も早く帰朝して、大事に至らぬうちに和睦をした上、藩の重役をも説いて、広く国際情勢の大局に目覚めさせるのは、我々にとって刻下の急務である。同時に藩へ対する忠節でもあると言うので、折から日本向の便船を幸、俄かに帰朝、横浜に着いたのは6月10日でした。

先ず横浜の外国公使館で、英、米、仏等の各国公使と面会して、

<strong>「この度の交戦に就いては、是非とも自分達に仲裁を任してくれ」</strong>

と諒解を得た上で、同月25日には城内に入って、藩主を始め重役達とも会して、滔々と内外の情勢を論じ、鎖国の非を述べたのでした。]]>
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    <title>幕府の代表、ペリーと久里浜にて会見</title>
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    <published>2010-06-09T00:53:00Z</published>
    <updated>2010-06-09T00:53:33Z</updated>

    <summary> アメリカの提督ペリーが、日米国際関係の交渉のため、浦賀に来航して、鎖国主義の長...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="浦賀上陸図" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/uraga.jpg" width="450" height="244" class="mt-image-none" style="" /></span>

アメリカの提督ペリーが、日米国際関係の交渉のため、浦賀に来航して、鎖国主義の長夜の夢を醒ましたのが、1853年（嘉永6年）6月3日、それより6日目の9日には、幕府の代表で浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄、井戸石見守弘道等が、久里浜で正式にペリーと会見する事となりました。

この日朝から、天気晴朗、米艦サスケハンナ号から13発の祝砲が発せられたを合図に、15艘のボートが久里浜に漕寄せられ、ペリーを始め、水兵、楽隊等300名ばかりが国書を捧げて上陸します。

これに対して日本国の警備兵5千を下らず、海岸から山麓へかけて、総勢物々しく整列している。もしまかり間違って敵対行為となれば、5千の兵の外に、山中にまで伏兵の用意があったというが、米国側でも4隻の軍艦から榴弾砲を放ってこれに応ずる覚悟がありました。]]>
        <![CDATA[しかし、幔幕をめぐらした假屋の裡で、歴史的会見の幕も僅か2、30分の間に、極めて平和の裡に行なわれ、近江の膳所産の日本茶を啜りながら、

<strong>「おお甘い茶だ、将来日本との貿易には、生糸とこの茶を忘れる事は出来まい」</strong>

と、先づペリーが目をつけたという逸話もこの時でありました。

太陽暦では7月14日の盛夏で、日本の警備兵の中には、日射病を起して倒れた者40数名があったと云います。
]]>
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    <title>土佐藩勤王家（平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太）3名の切腹</title>
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    <published>2010-06-07T15:08:58Z</published>
    <updated>2010-06-07T23:58:48Z</updated>

    <summary>土佐藩の勤王家平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3名が、青蓮宮の令旨を奉じ、土佐藩...</summary>
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        土佐藩の勤王家平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3名が、青蓮宮の令旨を奉じ、土佐藩の主な門閥家に迫り従来の俗論党佐幕派の空気を、尊王攘夷の一色に改革させようと促したのが、却って危険人物視され、1863年（文久3年）6月8日、3名に、切腹を命じられて、見事に割腹して相果てたのでした。当時平井が29歳、間崎が30歳、弘瀬が28歳の若盛りでありました。

これを知って憤激したのは、同藩の志士武市半平太でした。
        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="武市半平太" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/takechi.jpg" width="250" height="418" class="mt-image-none" style="" /></span>

彼は麻上下に威儀を正し、山内容堂公の面前に迫り、

<strong>「平井、間崎、弘瀬3名に対するこの度のご成敗は、誠に意外千万、沙汰の限りと存じます。三君何れも我が藩の忠臣として見る処ある傑物でありました。然るに思いがけなくもこの度の御処分は何事でありましょう」</strong>

と詰責し、容堂公が何か言おうとするのを押え、尚も語を強くして、

<strong>「お上はいつも徳川家の御恩のことを仰せられますが、二千年の皇恩と、二百年の私の恩とは、何れを重しとなされますか」</strong>

と何の恐るる色もなく諌めたので、流石の容堂公も答弁に窮したという逸話があります。

後に、平井、間崎、弘瀬の3名に対しては、1891年（明治24年）末、従四位を追贈される事になります。]]>
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    <title>池田屋騒動</title>
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    <published>2010-06-04T21:55:00Z</published>
    <updated>2010-06-04T21:55:15Z</updated>

    <summary> 1864年（元治元年）6月5日、京都で池田屋騒動の事件が起りました。 京都四条...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="近藤勇" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/kondo03.jpg" width="250" height="327" class="mt-image-none" style="" /></span>

1864年（元治元年）6月5日、京都で池田屋騒動の事件が起りました。

京都四条の小橋に筑前藩の御用を勤める柳家喜右衛門という者が住んでいて、町人にも似合わず沢山の武器を秘蔵しているのが怪しい、と嗅ぎつけた新撰組の近藤勇が、6月5日の早暁、その寝込みを襲って引捕へ、幾重に取調べてみると、前年8月18日の政変で、京都の地から追放同様となった長州藩の不平党が中川宮及び会津容保への復讐として、更に政変を一変させようという密謀がすっかり暴露されました。]]>
        しかもその当夜は三条の旅館池田屋総兵衛方で、同士20数名が密会する事まで判明したので、新選組は会津藩その他から援兵多数を頼みますが、時刻になっても到着しない為、近藤勇は独断専行し、日の暮方に不意に池田屋を襲って乱入します。

この乱闘に北副佶磨以下の7名は斬倒され、4人は重傷、3人を生捕、桂小五郎（後の木戸孝允）は僅かに身を以て逃れるという具合で、多勢を頼んだ新撰組が完全に勝利を得たのでした。

池田屋騒動は実に新撰組活躍の最初の記録でもありますが、この騒動で抜群の手柄をあらわし、最も器量を挙げたのは近藤勇でありました。
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    <title>伊東玄朴の大手術</title>
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    <published>2010-06-03T02:10:00Z</published>
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        1861年（文久元年）6月3日、蘭医伊東玄朴が、麻酔薬を用いて片脚切断の大手術をしたという記録があります。

江戸吉原の幇間桜川善孝の子の由次郎という若者が、脱疽を患って次第に重態となり、もう助からぬものと痛く悲観しているのに対し、玄朴は西洋医術から学び得た麻酔薬のクロフォルムを用い、この日右脚切断の思い切った大手術を行ないます。その経過は頗る良好で、やがて手術の傷も治って命を取止めたのでした。

既に命は無いものと覚悟して、寧ろ捨鉢の気味で手術を受けた本人にとって、玄朴先生こそは誠に命の恩人だと大喜びで、遭う人毎に、「この通りだ」と足をまくって見せます。

ある晩のこと、片脚のままで、そっと客席に侍り、左の足一本で舞を踊って見せて大喝采を浴びた。その時も、「膝をまくって見せろ、右足が無いというのは嘘だろう」と皆に言われた程に、彼の患部は立派に全癒していました。
        伊東玄朴については、日本に種痘法を広めた医学界の大恩人であり、西洋医学所の創立者でもあります。『伊東玄朴伝』には、脱疽手術を以て我国最初の麻酔を用いた外科手術であったと述べられています。

しかし、実はそれより56年も前の1805年（文化2年）10月13日、漢方にも蘭方にも通じた医学者の華岡青洲が、藍屋利兵衛という人の母親で、60歳になる老婆の乳癌手術に、麻沸散を用いて成功したというのが、我国最初の麻酔薬に依る手術の記録だとされています。

世界医学史を参照してみても、西暦1846年に、ボストンの外科医モートンが、麻酔薬に依る脱疽の手術は特記せべきだとされていますが、伊東玄朴より僅か15年前、華岡青洲よりは、41年も後の事になります。

即ち日本に於ける麻酔薬利用の手術は早くから開けていたのは注目すべきことです。
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    <title>黒船来航</title>
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    <published>2010-06-03T00:00:00Z</published>
    <updated>2010-06-03T00:06:14Z</updated>

    <summary> アメリカの提督ペリーが浦賀に来航して、江戸幕府の鎖国の夢を破ったのが、1853...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="ペリー提督" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/perry.jpg" width="250" height="371" class="mt-image-none" style="" /></span>

アメリカの提督ペリーが浦賀に来航して、江戸幕府の鎖国の夢を破ったのが、1853年（嘉永6年）6月3日の事でした。

この日午後5時頃、浦賀の沖に軍艦が現れると、「それ、黒船だ！」と俄かに付近一帯は鼎の沸くような騒ぎとなりました。

今から考えれば僅か1,700トン乃至264トン位の汽船で、少しも恐るるに足らぬものですが、浦賀の砲台からは号砲を放って警備船数百艘に総出動の命令を下し、先づ与力中島三郎助が陣羽織甲斐甲斐敷、多数の小舟を率いて、エイヤエイヤと黒船目がけて漕ぎ寄せる様は、さながら蟻の這い寄るようであったと云います。]]>
        <![CDATA[一方江戸幕府へは早馬の使者が櫛の歯を引くように往復する。数千の武装兵は海岸一帯に物々しく警備の陣を張る。こうなると附近の漁師や農夫達は、恐れ慄いて家財道具を取り纏め、落のびの仕度さえ始めるというので、「16歳以上50歳迄の男子は外出罷りならぬ」という布令を出したのも、いざという場合の狩出の為でありました。

言うまでもなくペリーの来航の目的は、戦の為めでは無く、日本との通商開発に在ったのを、こうまで騒いだのは、徳川幕府の牢固たる鎖国主義に加えて、これを逐攘うべき沿海防備に自信が無かった為で、夜に入っても篝火や松明が盛んに焚かれて、夜を徹しての厳重な警備でありました。

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="黒船" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/kurofune.jpg" width="450" height="305" class="mt-image-none" style="" /></span>

だから当時の落首に

<strong>「太平の眠りを覚ます上喜撰（茶の品名で蒸気船に通ず）たつた四杯で夜も眠られず」</strong>

と皮肉ったものでした。]]>
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    <title>唐人お吉、玉泉寺へ奉公</title>
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    <published>2010-05-24T03:06:00Z</published>
    <updated>2010-05-24T03:10:29Z</updated>

    <summary> 「駕籠で行くのはお吉じゃないか」と流行唄にまで歌われた俗称唐人お吉が、伊豆下田...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="唐人お吉物語" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/books_kichi.jpg" width="250" height="368" class="mt-image-none" style="" /></span>

「駕籠で行くのはお吉じゃないか」と流行唄にまで歌われた俗称唐人お吉が、伊豆下田の玉泉寺へ奉公のため、仕度金を受取ったというのが、1857年（安政4年）5月24日の事でした。

当時の覚書に依りますと、

<blockquote>一金二十五両、右は玉泉寺滞在の異人よりきち仕度金の為書面の金子相渡り候段、申聞かせられ金子御渡成され慥に請取申候也。　きち、姉もと、同人母きわ（印）　安政四丁巳年五月廿四日、町方御役人衆中</blockquote>

と記されています。

即ちお吉を一躍有名にした、玉泉寺奉公はこの日から始まって、8月22日まで三ヶ月続いたのでした。]]>
        <![CDATA[ところで玉泉寺に小間使奉公に出た少女は、お吉の他にお福、おさよ、お清、お松の4人でありました。何れも15歳乃至17歳で、中でもお吉の奉公が最も期間が短く、お松の如きは最も長く1年間も勤めています。

<ul>
	<li>お吉　（安政4年5月24日～8月22日）</li>
	<li>お福　（安政4年5月27日～10月4日）</li>
	<li>小夜　（安政5年7月1日～12月14日）</li>
	<li>お清　（安政5年2月5日～12月5日）</li>
	<li>お松　（安政5年2月12日～安政6年2月9日）</li>
</ul>

どうしてお吉独りばかりが有名になったのかは、玉泉寺滞在の主人たる領事タウンゼント・ハリス専属であったことに依ります。

ハリスが江戸幕府の役人と度々折衝し、日米両国間の国際関係を進捗させようとしながら、幕府側の逡巡で事は遅々として進まず、常に癇癪ばかり起していた。ハリスの寵を一身に集めたお吉であった事は言うまでもありません。

しかし、世人は彼女の苦労や功績を認めてやらず、同情もしなかったばかりか、却って散々に嘲笑したので、50歳で稲生沢川に投身自殺するまで、朝夕の自棄酒でその生涯を淋しく終ったのでした。]]>
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    <title>最初の燈台条約</title>
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    <published>2010-05-12T15:04:00Z</published>
    <updated>2010-05-12T15:05:00Z</updated>

    <summary> 観音崎燈台 1858年（安政5年）、幕府がアメリカを始め、オランダ、イギリス、...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="観音崎燈台" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/toudai.jpg" width="350" height="416" class="mt-image-none" style="" /></span>
観音崎燈台

1858年（安政5年）、幕府がアメリカを始め、オランダ、イギリス、フランス、ポルトガル等の各国と通商条約を締結して、長崎、函館、横浜などの港を開いたものの、さて外国の船舶が日本の港に来航してみると、燈台の設備が無く、浮標や瀬印さえ無いのには甚だ不便を感じて、幕府に対してその設置を懇請したのでした。

幕府としても、如何にも尤もな外国側の要求を否めず、1866年（慶応2年）5月13日、水野和泉守が初めて燈台条約を結びます。]]>
        それに依りますと、いよいよ来る19日より燈台、その他浮標、瀬印などの設置に着手するという定約書であって、大きな太鼓判まで捺したのであったが、何がさて折から幕末の風雲急を告げ、多事多端に紛れ、5月はおろか6月、7月となっても実施の運びに到りませんでした。

その頃、横須賀製鉄所のお雇技師であったイギリス人ウェルニーに灯台設計を依嘱して、日本最初の洋式灯台が、相州の観音崎に竣工点火したのは、1869年（明治2年）1月1日の事でした。

高さ40尺（約12メートル）の煉瓦造りの灯台で、三重心の石油ランプを光源とし、レンズを用いた最初の西洋式燈台で、燈台守もイギリス人が雇われたのでした。
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    <title>攘夷決行、馬関戦争の火蓋が切られる</title>
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    <published>2010-05-09T15:04:00Z</published>
    <updated>2010-05-09T15:04:35Z</updated>

    <summary> 江戸幕末における憂国の士の合言葉は「攘夷」の二字にありました。 門戸を開いて外...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="長州砲" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/tyosyuho.jpg" width="450" height="306" class="mt-image-none" style="" /></span>

江戸幕末における憂国の士の合言葉は「攘夷」の二字にありました。

門戸を開いて外国と通商を開き交誼を結ぶは以ての外、外国人が日本に接近しようとするのは、先づ耶蘇教を広め、やがて日本攻略の野心ありという見解は、200年来国民の抱いた思想で、排他的の長い伝統は幕末に到って最も濃厚となり紅毛人を蛇蝎の如く忌嫌ったのでした。

というのも天草の切支丹一揆以来、外国船の度重なる海辺侵入事件や、開港条約の強請や、国粹尊重等の種々の経路が因をなして、憂国の志士の間に与論囂々と起り、遂に幕府も1863年（文久3年）5月10日を期して、攘夷実行を命令します。]]>
        <![CDATA[恰かも好し、この日アメリカの商船ベンプローク号が、長門の府中に碇泊しようとしたので、手薬煉引いて待っていた長州藩の兵が、いきなり攘夷実行の第一砲を放って、先づこれを追払います。下関事件、いわゆる馬関戦争の火蓋はここに開かれたわけで、更に引続いて5月23日にはフランスの軍艦キャンシャン号、同26日にはオランダの軍艦メデューサ号が、下関海峡を通過するのを狙って砲撃されます。

これを聞いた米国軍艦ワイオミング号は、6月1日抗議のために下関にやって来た処、またも砲撃されたので、艦上からも応戦発砲、長州藩船2隻を撃破して東方に引上げたのでした。

6月5日、フランス軍艦が報復のため下関砲撃に来航します。翌6日には高杉晋作が奇兵隊を組織して外敵に備えます。長州の攘夷熱当るべからざるものがありましたが、残念ながら兵器の上に於て、到底彼らの敵ではなく、こちらの着弾距離外にある外国船の砲撃が、馬関の各砲台に命中して、遂に敵兵が上陸するという具合に、馬関戦争の結果は長州方の敗北に帰したのでした。

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="馬関戦争" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/bakan.jpg" width="450" height="330" class="mt-image-none" style="" /></span>
フランス艦隊によって占領された砲台]]>
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    <title>種痘所の開設</title>
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    <published>2010-05-06T15:02:00Z</published>
    <updated>2010-05-06T15:02:54Z</updated>

    <summary>日本最初の種痘所、即ち植疱瘡の病院が江戸に開設されたのが、1858年（安政5年）...</summary>
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        日本最初の種痘所、即ち植疱瘡の病院が江戸に開設されたのが、1858年（安政5年）5月7日の事でした。

イギリスのジェンナーが発明した種痘法もやがて日本に伝わり、西洋医術家伊東玄朴等の種痘研究も着々実験の成果を上げて、いよいよ確信を得たので、一日も早く疱瘡に悩む人々を救済したい念願から、種痘所設立に就て同年正月15日には、幕府へ願書を提出、間もなく時の老中堀田正睦備中守から免許が下されたので、伊東玄朴以下80数名の医者が醸金して、ここに初めて江戸神田お玉ヶ池に種痘所の開設を見たのでした。

しかし、せっかく種痘所が開設されながらも、江戸の一般市民は種痘を恐れて、とんでもないデマが流布された。人間の皮膚に牛の膿を植えつけるなぞとは言語道断、その結果は牛の角が生えるとか、全身に黒い毛が生えるなどと称して、却って排斥する風さえあったので、その実証を挙げて宣伝するのに非常に骨が折れたと云います。
        
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    <title>中岡慎太郎と西郷隆盛両雄の薩長連合</title>
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    <published>2010-05-05T15:44:00Z</published>
    <updated>2010-05-06T02:42:01Z</updated>

    <summary> 中岡慎太郎 1865年（慶応元年）閏5月6日、土佐藩の中岡慎太郎が、西郷吉之助...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="中岡慎太郎" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/nakaoka.jpg" width="250" height="345" class="mt-image-none" style="" /></span>
中岡慎太郎

1865年（慶応元年）閏5月6日、土佐藩の中岡慎太郎が、西郷吉之助と会見ため鹿児島に赴きます。中岡がわざわざ西郷を訪ねたのは、実は大きな魂胆がありました。

彼はその前々月の4月の始め、京都の形勢を探ろうとして、上京してみて驚きます。というのは幕府が長州征伐再挙を謀りつつありと聞いて大いに憤慨し、直ちに大阪の薩摩屋敷に岩下佐次右衛門、伊地知正治、税所篤等の同志を訪ねて、この際、薩摩と長州の両藩は相協和して、幕府に立ち向かうべきだと痛論して、その場で同意を得ます。
]]>
        <![CDATA[彼等も

<strong>「それではただ今帰国中の西郷が、間もなく上京する筈であるから、その途中、馬関に立ち寄らせ、長州と手を握らしたら好かろう」</strong>

と相談一決、そこで中岡は時を逸せず、直ぐに薩摩へやって来たのでした。

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="西郷隆盛" src="http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/images/saigo.jpg" width="250" height="314" class="mt-image-none" style="" /></span>

西郷は中岡に薩長連合を説かれるまでもなく、早くからその必要を痛感していたが、果たして長州の方にその意があるや否や気にしていました。

しかし中岡の熱心な勧めに

<strong>「それでは兎に角、成る成らぬは別として一応当って見ずばなるまい」</strong>

というようになり、両人打連れて鹿児島を発ったのが、閏5月10日の事でした。

然るに同月18日、佐賀関に着いた時、上京中の大久保から急報で、「直ちに上京するよう」との書面を受取ったため、中岡との約束は止むなく後回しとなって<strong>「その中必ず役目を果す」</strong>と言って上京してしまいました。

中岡も西郷を信じていたので決して失望はしませんでした。そして翌月24日には坂本龍馬と二人で上京し、更に西郷と会して同説を強調するなど、彼の熱心な画策は着々と功を奏し、翌年の正月には目出度く薩長連合が成立するのでした。]]>
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    <title>寺田屋騒動</title>
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    <published>2010-04-22T15:05:00Z</published>
    <updated>2010-04-23T11:03:23Z</updated>

    <summary>1862年（文久2年）4月23日、維新回天の史上に一場の悲劇を演じた京都伏見の寺...</summary>
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        1862年（文久2年）4月23日、維新回天の史上に一場の悲劇を演じた京都伏見の寺田屋事件が起りました。

安政の大獄の後を受けて、各地から起ち上がった鬱勃たる勤王憂国の志士は、久留米の眞木和泉守を始め、土佐の吉村寅太郎、長州の久坂玄瑞等300余人が、踵を接して京都に集まってきました。

ここに薩摩の同志有馬新七の一行は、君側の姦たる関白九条忠尚と、所司代酒井忠義とを屠って、大謀を決行しようと協議一決、有馬新七、柴山愛次郎、橋口伝蔵、橋口壮介、弟子丸龍助、田中謙助、西田直五郎、森山新五左衛門等、寺田屋で勢揃いして、何れも夜討の武装を整え、夜陰を待ってこれから出かけようという所でした。
        折柄上京中の薩摩の島津久光は、寺田屋の事を洩れ聞いて愕然、奈良原喜八郎、江夏仲左衛門、鈴木勇右衛門、道島五郎兵衛、山口金之進、鈴木正之助、大山格之助、森岡清左衛門等という、腕利揃いの八勇士を寺田屋に急派し、義挙組の取鎮方を命じます。

寺田屋では両者の間に膝詰談判が開始されましたが、義に燃立って決行しようとする我々は、今更男として思い止まる事は断じて出来ない、と頑として刎ねつければ、鎮撫の使者は、君の御命令だ、今晩だけは是非共手を退いて貰わねば、我々の役目が立たぬと、互いに一歩も譲らなかったので、我慢なりかねた血気の道島五郎兵衛がいきなり、「上意討ちや、覚悟せい」と抜打に田中謙助の眉間を斬り、間一髪を容れぬ素早さで、柴山愛次郎もまた斬ります。

これを見て烈火のように怒った有馬が道島に斬ってかかり、力余って刀が折れ、副刀を抜く暇もなかったので、道島と組んで壁に押さえつけます。同士橋口が駈けつけたが重なり合っているので斬る事が出来ない。有馬は声を励まして「我偕（おいごと）刺せ、我偕刺せ」という。橋口は声に応じて有馬の背から道島の腹まで刺貫いて、敵味方共に斃したという、前代未聞の壮烈な剣戟が演じられたのでした。

弟子丸が二階から下りる所を、大山格之助が下から足を払ってこれを斃し、橋口も同様、階段の途中で槍に刺される。こうした騒ぎに、骨肉相刺して非業の最期を遂げた者は、同志側で8名、鎮圧の使者側では道島が死に、2人が重傷、その他殆んど手傷を負います。

将来を有する多望な同志が、互いの真意を掴み得ず、闇雲の裡に非業の死を遂げる、とても悲惨な事件でありましたが、殊に同志の残党田中河内介以下6名が、日向の細島に護送され、船中で斬られ、その死体を海に投じてしまったというのが、全くの惨事中の惨事でありました。

西郷吉之助（西郷隆盛）も後でこの事を知って「勤王の同志を斬るとは何事ぞ」と憤激したと云います。
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    <title>土下座の制を廃止する</title>
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    <published>2010-04-21T15:03:00Z</published>
    <updated>2010-04-24T08:23:19Z</updated>

    <summary>明治の維新となって各般の制度が一変された中に、公卿貴族大名などの行列のお先払い、...</summary>
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        明治の維新となって各般の制度が一変された中に、公卿貴族大名などの行列のお先払い、並びに土下座の制を廃止せよと、太政官令も以て布告されたのが、1868年（慶応4年）閏4月22日の事でした。

それまでの貴族の行列には、物々しい行列にお先払いが真先に進んで、沿道の民に対しまるで蝿を逐うように「おお」とか「しい」とか声をかけ、もし少しでも無礼の者があると、「頭が高い」「控えろ」と叱責され、あるいは処分されました。

こうした極端な差別的取扱いも、この日の布令に依れば、「官は大臣たりとも渇道並びに殿上の前導示渇を廃すべし」とあって、土下座もお先払いも旧弊の後を絶ったのでした。
        
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