
鎌倉郡雪の下村に鎮す。祭神は応神天皇神功皇后大仲媛神の三坐にして、建久四年源頼朝之を奉祀す。近傍鎌倉幕時の古跡見るべきもの最も夥しく、本社又多く旧時の什宝古器を蔵せり。
鶴岡八幡の静の舞義経の妻静が源頼朝に所望され、鎌倉の鶴ヶ岡八幡舞殿に於て、舞を奏したという有名な逸話が「吾妻鏡」に1186年(文治2年)4月8日と見える。一の谷に又壇の浦に赫々たる武勲をあらわした義経が、左衛門少尉検非違使に任官されたのが、却って兄頼朝の不興を買い、梶原景時の讒訴も手伝って次第に不和となり、殊に頼朝とは予て不仲の叔父行家に頼られてからは、愈々両者の間は犬猿も唯ならぬ仲となったので、頼朝に追われ、愛妻静とも離れ離れに各地を流転の身となった。静も主人の行方を求めて吉野の蔵王堂に来た処で執行に捕えられ、遂に鎌倉送りとなった。頼朝から頻りに義経の行方を訊問されたが、知らぬ存ぜぬと答えるよりは外は無かった。1186年(文治2年)4月8日と言えば、頼朝にとって39回目の誕生日であり、恰かもこの日御台所政子と共に、鶴ヶ岡八幡に詣でて武運長久を祈りつつ、舞殿で白拍子の舞を見物した。そこへ召出されたのが静であった。容貌衆に優れて窈窕、而かも鮮かな舞の手には、頼朝以下何れも恍惚たらざるを得なかった。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を承ってこれに和せば、聲も朗々静の歌に「吉野山峰の白雪ふみ分けていりにし人の後ぞ悲しき」「しづやしづ、しづのをだまき繰返し昔を今になすよしもがな」と、今は落人の義経が身の上に熱い想をこめて舞を納めた。思えば憎むべき頼朝のため何の面目あって晴々しく舞う事が出来よう。それもこれも懐胎中の大切な我が身を思えば、節を守って隠忍する外はなかったであろう。
然し頼朝は、何時迄も義経を慕うその心情が憎かった。そして一思いに殺してしまおうとさえしたが、政子のため止められて、やがて生まれた子供が女の子であったら母子共に助けてやるが、若し男の子の場合は其子を棄てて義経の後継を絶とうと約束した。所が同年閏7月28日に生れたのは玉のような男の子であった為め、頼朝は安達清恒に申しつけて由比ケ濱に棄てさした。静の悲嘆は如何ばかりか、泣いて泣き切れず、頼朝に刃を報いて怨を晴そうとしたが、政子のため漸く宥められ、身に余る餞別を贈られ、主人義経の後を慕って密かに鎌倉を後にしたというが、それからの消息は不明である。美しくも憐れな静の半生であった。
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