明治時代の新聞記事
噫乃木将軍
- 1912年9月15日
- 萬朝報
△満都哀慕の涙に湿る
新聞紙の所報によりて、乃木将軍夫妻自殺のことを知りたる満都の人々は、老いも若きも知るも識らぬも、唯惜愕の眼を瞠り、悲痛の感に打たれざるものなかりき、勇敢なる武将として、清廉なる高士として将軍が如何に深く敬慕せられたるかを窺ふに足らん。
乃木大将の殉死
- 1912年9月14日
- 萬朝報
――轜車発引の時を期して割腹――
――夫人も倶に咽喉を貫て死す――
明治天皇の霊柩を送りまつりし悲しき夜我等又更に一の悲報に接しぬ、それは日露の役に偉勲を樹てゝ赫々たる名誉を天下に輝かしたる乃木将軍殉死の報是れなり、而かも夫人も倶に膝を並べて刃に伏し同じ途に赴きぬと聞くに及びて、吾等は悲痛の情益々深きを覚えき。
乃木中将の覚悟
- 1904年6月 3日
- 時事新報
新聞紙の伝ふる所に拠れば乃木陸軍中将に二子あり長子は第一師団の歩兵第一連隊に属し南山の戦に名誉の戦死を遂げたる中尉勝典氏にして次子は出征中になる同師団歩兵第十五連隊の少尉保典氏なり、欺く二子とも戦場に赴きたる其上に中将も亦、或る重大なる任務を帯びて(註、第三軍の司令官として)此程出征の途に上るに臨み適々長男戦死の報を得たるに中将は家人を顧み此戦役には父子三人揃って戦死を遂ぐるの覚悟なれば、此際葬儀を営むことは暫く見合せ、他日三人の遺骸を同時に葬送する時あるを待つ可しと命じたりと云ふ。
日進春日両艦横須賀に安着す
- 1904年2月17日
- 東京日日新聞
我が上下の人々が一日も早く安着せよかしと待ちに待ちたる帝国軍艦日進春日の両艦は愈々本日を以て無事横須賀に到着したり即ち、日進は午前九時三十分に、又春日は之に後くるゝこと二時間にして同十一時三十分を以て入港せり
旅順口外の海戦
- 1904年2月11日
- 国民新聞
――二月十日水野芝罘領事発外務省着電――
英国汽船「コロンビヤ」号一等運転士は本官に告げて曰く、二月九日正午本船が旅順口を出港せんとする時十六隻より成れる日本の艦隊は旅順口外六哩の所にて露国軍艦と放火を交へてありし露艦の内、戦闘艦二隻(レトウイザン一ニ九〇ニ噸、ツェザレウイツチ一ニ九三七噸)巡洋艦一隻(バルラダ、六七三一噸)は同日午前七時日本の水雷に轟沈せられたるなりと。
露国の通牒
- 1904年2月 9日
- 国民新聞
二月六日を以て露国が列国に発したる通牒に曰く、日本が露京に於ける其公使(栗野公使)並に公使館員全部に対し引揚の訓令を発したる結果、露国も同じく東京駐在の露国公使(ローゼン男)に対し引揚の命令を発せりと。
最後の御前会議
- 1904年2月 5日
- 国民新聞
伊藤、山県、大山の三侯、松方、井上の両伯、桂総理、山本海軍、曾禰大蔵、小村外務、寺内陸軍の各大臣は四日(二月)午後二時参内、御前に於て会議を開き時局に関する重大なる事情につき協議し御下問に奉答する所あり、会議は四時三十分頃結了、一同御前より退出後、内閣に立寄り更らに協議を重たるが、山本海相は同四十五分、山県侯、寺内陸相は同五十分大山侯は五時五分、松方伯は同三十五分、井上伯は同四十分、小村外相は六時十分、伊藤侯、桂首相、曾禰蔵相は同十五分退出せり。
子規居士を悼む
- 1902年9月22日
- 東京朝日新聞
子規子の生涯は世の既に識る所多きを以て重ねて詳記するの要なけれど、予が茲に特に筆するを禁ずる能はざるところのものは、予が超邁の英気と独立自ら信ずるの甚だ篤きことに在りき。
俳壇の巨人正岡子規逝く
- 1902年9月21日
- 東京朝日新聞
八年病蓐に在つて俳壇を革新し、病重きも「墨汁一滴」に筆を絶たず、其の益々篤きに及んで、猶口授を以て「病牀六尺」を廃せざりし、子規氏(伊予松山の人)は一昨十九日午前一時を以て竟に逝けり。