- 1902年9月22日
- 東京朝日新聞
子規子の生涯は世の既に識る所多きを以て重ねて詳記するの要なけれど、予が茲に特に筆するを禁ずる能はざるところのものは、予が超邁の英気と独立自ら信ずるの甚だ篤きことに在りき。
古来文界に名を售るの士尠からざるも、一たび其性行を顧みれば多くは浮華に流れ、軽佻に失し、薄志弱行其終りをよくするもの殆ど無き其間に立ち、而も貧に克ち、病に克ち、毅然として終始斯道に貢献する其楽を易へざりしが如き、洵に古今多く其の倫を見ざる処とす。堕落其極に達せし明治の俳壇を拉して、新に一生面を啓き進で今日の隆興を観るに臻らしめたるもの、実に子が日本紙(日本新聞)上に於て、将た、其叢書に於て之を啓発し、鼓舞したる賜なり。余謝蕪村が作者として芭蕉の上に在るや否やは暫く措き、兎に角世に隠れたる俳豪を九原の下に起して雄壮の句風を紹介し、因て以て我国俳壇の句風を一新したるが如き亦偏に子の力なり。明治の俳界に於ける子規子は恰も、貞享の芭蕉、天明の蕪村と倶に永く、其効績を世に伝ふべし。さらに、此偉人今や溘として亡矣。真に遺恨の極みなれ。
終焉の翌日根岸の里の廬を昔訪へば、庭前の梧葉空しく落ちて掃きも敢ず、半朽ちし糸瓜の棚の此方なる六尺の病牀に八年の塵を聚め、淡然として其間に眠れる楽天の情景、洵に歎ずるに余りあり、柩前に懸くる簑と笠とは子が曾て房州の雨にそぼち、川越の風にさらされ
簑笠を蓬莱にして草の庵
と詠じたる千古の記念なり。昨二十一日亡骸を其笠にかくして尾花枯れたる田端の大竜寺に葬る。香を拈じて追懐一番、転た秋風の落冥たるを覚ふ、塚も動けと泣く声はひとり夜来の秋雨のみかは、茲に掲ぐるは子が病中の俤にして台紙の裏に左の自筆あり。

「明治三十三年四月五日赤石定蔵氏の撮影する所、余は右の肱を枕の上に托して半身を蒲団の外に出し居れり。枕元にあるは俳稿、歌稿「我病」の原稿等柱にかゝれるは簑、白瓶に活けたるは桜の蕾、桜の上に少し見えたるは支那製の団扇、枕のすぐ前にあるは国分寺瓦の硯」
斯る些末に至る迄意を用ひるの何ぞ周到なるや、実に子は簀を易ふるまで筆を放たず、而も、軒昴当る可からざるの概ありしが、永眠十日以前の頃より苦悶の状は自づと其筆端に漏れき。病牀六尺に曰ふ。
近頃は少しも滋養分の取れぬので体の弱つた為か、見るもの聞くもの悉く癪にさはるので政治と云はず、実業と云はず、新聞雑誌に見る種々の事皆我をぢらすの種である。(八日同上)
○支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以来、昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである(十二日同上)
○人間の苦痛は余程極度へまで想像せられるが、しかし、そんなに極度に迄想像したやうな苦痛が自分の身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。
極度の苦痛を想像する能はずと云ひしは実に本月十三日なりき。其言葉も今は仇なれ、墨痕未だ乾かざるに極度の苦痛は遂に子の痩軆を襲ふこととなりぬ噫。
子の辞世なる糸瓜の句は載せて前号に在り、今生前の最近の吟詠を左に録す。
明月も十六夜も皆雨にして
蓑蟲の鳴く芭蕉の塚の木に
吹き下ろす妙義の霧や葡萄園
盆栽の石榴実垂れて落ちんとす
はち破て実も溢さるゝ石榴哉
朝顔の盛り過ぎたる施餓鬼哉
貧淋し喰ぬ木の実の落つる音
身のはてを蟻の餌食と秋の蝶
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