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噫乃木将軍

△満都哀慕の涙に湿る
 新聞紙の所報によりて、乃木将軍夫妻自殺のことを知りたる満都の人々は、老いも若きも知るも識らぬも、唯惜愕の眼を瞠り、悲痛の感に打たれざるものなかりき、勇敢なる武将として、清廉なる高士として将軍が如何に深く敬慕せられたるかを窺ふに足らん。

△辞世の和歌 ~殉死と確定す~
 乃木大将の自殺に就ては、或は殉死ならんと云ひ、或は憤死ならんと云ひ、其噂区々なりしが、十四日発見したる大将自筆の和歌には

        うつし世を神さりましし大君の
                御あと慕ひて我はゆくなり

としたためあり、これによりて見れば、大将の割腹は覚悟の殉死なること一点の疑ふべき余地もなしなほ此辞世と一つにして、夫人静子が、先帝の霊柩永しへに宮闕を出でさせたまふを悲しみたる左の如き和歌あり、これも十三日の大葬当日詠みたるものなるべし

        出でまして還ります日のなしときく
                けふの御幸に逢ふぞ悲しき

乃木夫妻辞世の句
乃木夫妻辞世の句

△遺書の文意 ~自殺と決心した動機~
 大将の遺書は都合七通ありとも云ひ、或は石黒軍医総監に宛てたるものと、家に遺したるものとの二通なりとも云ふ、石黒男に宛たるものは、死体の後始末を托したるのみにて他に何等の意味もなけれど家に遺したるものには、自殺の原因として、明治十年、西南戦役の際、田原坂の激戦に将軍の率ゐる聯隊が、賊の為に聯隊旗を奪はれしことあり、将軍の気質として此恥辱を終生の恨事となし、一死以て君前に謝せんと意を決したりしも其時機に達せず、只管国の為身命を抛ちて前の罪を償はんと務たりき、三十七八年の戦役には旅順攻撃に一死を期したりしに、是また二愛児を先立てて自からは余命を繋、ただ一つの頼みとしたる先帝の崩御に会ひ、宿昔の決意を果たすべき時機、今は此時を措て又来らざるべき思ひて自殺を覚悟したる旨を記しありたりと聞く、十三日、夫人と死を共にしたる室内には葡萄酒を酌みたる形跡あり、これぞ夫妻最後の世に訣別の盃なりしならんか。

△昨日の乃木邸 ~木戸家に受附を設く~
 赤坂区新坂町なる乃木邸にては、表門を締切りて左手なる側門より出入し、門前の竹垣に貼紙して、「当邸へ御用の御方は木戸家へ御出被下度候、乃木邸」と記し(木戸家とは、五六軒手前なる木戸侯爵家なり)門の左右には憲兵二人少尉一人、門衛として控へたり、側門を入りて玄関前に進めば卓子を置き、歩兵大尉其他数人、特別の訪問客に対して受附を勤む、同邸には前夜来引続き親族知友打集ひ協議中にて、一般の訪問客に対して木戸家の方に受附を設け十数名の将校下士控居たり

△英国親王殿下 ~乃木邸を訪はせらる~
 英国皇帝御名代として、大葬参列の為御渡航あらせれたるコンノート親王殿下に於かせられては接伴員たる乃木大将不慮の薨去の趣聞し召されてより御痛惜一方ならず、殊には昨年将軍が東伏見御名代宮殿下の随員として英国皇帝戴冠式に列したる際、御懇篤に遊ばされたる間柄なれば、御悲しみも一しほにて、十四日鎌倉へ赴かせらるる御途次吉田、稲葉などの各接伴員を随へさせられて態々駕を乃木邸へ枉げさせられ、親しく御弔問遊ばされたる旨承はる、将軍死して余栄ありと云うべし

乃木邸
乃木邸

哀慕の人 ~乃木家の墳塋に詣づ~
 雲低く垂れて泣くが如き薄暮乃木家の墳塋を訪ふ、青山墓地の東隅五尺ばかりの石垣繞らしたる累代の墓地には、正面に先考の碑を建て、右手に二本の樒の木を植えたり、左側には大将が愛児にして三十七年の役に戦死したる勝典、保典両氏の碑あり、碑前に新しき線香の燃えさしの残れるより見れば、十三日朝、大将は夫人静子と打揃うて最後の墓参を為したるものと推せられる、時に墓前に額ついて礼拝せる一青年あり進んで名を問はんとせし折柄、三人の将校来るに会ひ、青年は憚かるが如くに立ち去りぬ、大佐、中佐、大尉の三将校は歩兵一聯隊の従卒二名を随へて暫時黙祷に入れり、墓所を預る茶屋杉山に就て聴くに十四日来乃木家の墓地を尋ねて詣づる者引きも切らずと云ふ、想ふに大将の殉死を悲しむのあまり、せめては、其人の愛児の墓に詣でて、哀慕の情を述べんとするものなるべし。

乃木夫妻の墓
乃木夫妻のお墓

△文武兼備 ~松井学習院主事の談~
「突如として乃木院長の凶報に接し驚愕措く所を知らぬ、何せ夫人も御一緒で、後には御家族がないから、学校から教官が交代で参邸して種々後始末をする手筈として今日(十四)午後教官を招集して種々打合はせした、尤も大体の事務は陸軍でやって居る、乃木院長は寄宿舎を自分の家のやうにして大将としての官用でない限りは必ず在舎され、朝は学生より一時間早く(四時半)起き、夜は学生と同時に就寝蓐された、食事も学生と同じものを同じ食卓でやられると云ふ風だったから、初め舎監や学生は大分煙たがったものだが、夫が何より薬となり、教官学生の気風が一変して、精神上に大感化と受けた、概して無口な方だったが教官が病気で時間が空く時などには私がお話しやうとて修身上の話をされた、要するに院長は文武兼備の良将で、人格の崇高なる事近代に珍らしく、学校でも暇さへあれば必ず読書して精神修養の糧として居られた云々」

学習院長官舎
学習院長官舎

△厳父慈母の両面 ~山岡中佐の談~
「将軍閣下に親しく接したのは自分が第三軍の参謀となった後の事である、当時奥第二軍は、一方金州南山の敵南下するを抑へ、一方旅順の要塞を攻めて居たが、兵数尠き十分の活動が出来ない、乃木第三軍は之を援助する目的を以て上陸し、北の方塩大澳附近に軍司令部を置いて敵の南下に備へ南の方は敵の要塞本防禦線を衝いて永久築城の外囲を攻撃した、此の時は数回の攻撃に沢山の部下を殺された、五月二十六日(明治三十七年)の南山の役には、将軍の長男勝典氏が討死する、十一月三十日の二○三高地の攻撃には次男保典氏が戦死した、此時将軍は、不束な子供二人が皇国のお役に立ったのは実に嬉しいと喜ばれた。其喜びの裏には深い悲痛の情が含まれて居たに違いない、保典氏戦歿の報が二○三高地に在りし児玉参謀長、松村第一師団長、大迫第七師団長、福島中将の許に伝はるや諸将皆な黙して、一語もなかった。良あって特に親交ありし児玉将軍は、乃木は宜い事をしたと云はれた、此言葉に諸将は涙を呑んだ、蓋し、児玉将軍の一語は乃木将軍の心事を能く知ったものである、其後自分は奉天の役に負傷して戦線を退いたが其後も常に将軍の愛顧を受けて居た、最後にお目にかかったのは三月二十四日、戸山学校で開催の第三軍記念会の時であった、将軍の人格に関しては世間往々厳格一方の人の様に云ふ者もあるが、其は誤りである、将軍は厳父の威厳と慈母の愛とを兼備した人で、一兵卒に対してさへ我児を見ると変らない戦時当時でも毎日戦線へ出られて兵卒の苦戦を親しく見られた、自分が参謀となって居た時分、本国からの長文電報を訳して居ると、夜の一時二時になったことがある、其時訳文を持って検閲を受けに伺ふと、将軍は何時でも起て居られて、鄭重な言葉をかけて下された、ビスケットの空罐を代用した火鉢の中には、どんな寒い時でも螢のやうな火が二つ三つ有るばかりだ、時々従卒が炭を加がうとすると手を振って、煙草の火だけで沢山だ、第一線の者は火の気は無いぞと云はれた、厳格の中に何とも云はれぬ優し味が含まれて居た。名将は士卒と艱苦を共にすると云ふが、即ち此名将と称すべき人手ある云々」

△夫人の気質 ~比志島中将夫人の談~
「乃木大将が台湾総督の職に在らせられた時分、夫人はマラリア熱に罹り、台湾から御帰りになって赤十字病院に入院なさいました主人は大将の部下に居ましたので私は時々お見舞に出ました、誠に婦人らしい御謙遜なお方で私が出ましてもお床の上に直って御挨拶遊ばしました、少しでも御気分が宜しいと御自身で御見送り下さいます、そんな所は能く大将の御気質に似て居られました夫れから三十七八年の戦役に谷子爵夫人等の首唱で婦人報国会と云うものを起しました夫人は幹事のお役他の会に余り御出席になりませんが、女中を相手にお宅でシャツやヅボンをお縫いになりまして随分御働でした、大将は日曜と土曜に御帰邸なさる外は学校にお宿泊ですから広いお邸に夫人は唯一人きりでした、是れと云ふ遊山なども遊ばされなかったさうですが年に三四回は那須の別荘に御越しになって御自身野菜などをお作りになったさうです、夫人は平常、数他の部下を殺し陛下に申訳がない、二人の子供を棄てたのは、せめてもの申訳だと云っておいでになりましたが」云々

    

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