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国民新聞 Archive
旅順口外の海戦
- 1904年2月11日
- 国民新聞
――二月十日水野芝罘領事発外務省着電――
英国汽船「コロンビヤ」号一等運転士は本官に告げて曰く、二月九日正午本船が旅順口を出港せんとする時十六隻より成れる日本の艦隊は旅順口外六哩の所にて露国軍艦と放火を交へてありし露艦の内、戦闘艦二隻(レトウイザン一ニ九〇ニ噸、ツェザレウイツチ一ニ九三七噸)巡洋艦一隻(バルラダ、六七三一噸)は同日午前七時日本の水雷に轟沈せられたるなりと。
露国の通牒
- 1904年2月 9日
- 国民新聞
二月六日を以て露国が列国に発したる通牒に曰く、日本が露京に於ける其公使(栗野公使)並に公使館員全部に対し引揚の訓令を発したる結果、露国も同じく東京駐在の露国公使(ローゼン男)に対し引揚の命令を発せりと。
最後の御前会議
- 1904年2月 5日
- 国民新聞
伊藤、山県、大山の三侯、松方、井上の両伯、桂総理、山本海軍、曾禰大蔵、小村外務、寺内陸軍の各大臣は四日(二月)午後二時参内、御前に於て会議を開き時局に関する重大なる事情につき協議し御下問に奉答する所あり、会議は四時三十分頃結了、一同御前より退出後、内閣に立寄り更らに協議を重たるが、山本海相は同四十五分、山県侯、寺内陸相は同五十分大山侯は五時五分、松方伯は同三十五分、井上伯は同四十分、小村外相は六時十分、伊藤侯、桂首相、曾禰蔵相は同十五分退出せり。
日英同盟の成立
- 1902年2月13日
- 国民新聞
日英両国間に於ける識者の希望は遂に事実となって現はれ、両国の同盟協約は一月卅日倫敦に於て全権の調印を終り即時より有効のものとして十二日の議員に披露せられたり。
豊島沖の海戦詳報
- 1894年7月25日
- 国民新聞
南陽湾附近の海戦、○支那運送援加兵千五百沈没○軍艦の捕獲○世界に向っての名誉
我が秋津洲号、高千穂号の艦隊は二十五日午前七時、彼の軍艦の発砲に応じ南陽湾の前、豊島附近に於て清兵千五百を乗せたる運送船を沈没せしめ、保衛清国軍艦操江号を捕獲し、同済遠号は清国に広乙号は牙山に向ひて逃れたり。
操江は砲艦にして排水トン数九百五十トン、実馬力三百五十、吃水前十呎、後十二呎、長さ百六十八呎、幅二十七呎速力九、石炭の量百六十トン、其の武器は十三斤鋼砲一、十六斤鋼砲二、ガットリング砲四を備へたり(下略)
豊島沖の海戦
- 1894年7月25日
- 国民新聞
我が海軍清兵一千五百人を打沈む
我が秋津洲号、高千穂号の艦隊は二十五日、午前七時南陽湾近海に於て、清兵一千五百人を搭載して天津より牙山に向はんとしたる清国の運送船を打沈め而して、護衛軍艦を逃遁せしめたり。
右は仁川釜山間の急知船富士川丸の齎らし来りたる一大吉報にして、昨二十七日の夜或る筋に達せし電報なりと聞く。
既に本日の国民新聞に掲載せし通り、二十三日午前十一時我が二○○は舳艫相含み○○保を出発したることなれば、其廟算着々適中したるものなりと云う可し。
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